矛盾に救われるとき
生きているということは、たくさんの矛盾に出会うことでもある。
実体がないのに、人の心や身体を軽くもしたり、または重くのしかかることもある言葉も。
2人なのに強くじわじわと首をしめてくる孤独も。
でも、矛盾の中には救いとして手をそっと伸ばしてくるものもあるということを、
若松英輔さんの『悲しみの秘義』を読んで、知ったのである。
*
亡くなった人を想うとき、吐くような悲しみと寂しさが、何もかもを詰まらせることがある。
大きな悲しみに向き合うとき、私は”乗り越える”か、”抱えて生きる”か、”目をそらす”しかないと思っていた。
乗り越えることも抱えることもできなかった私は、悲しみから目を逸らそうとしたし、特に眠る前に襲う悲しみにあっちいけだの、せめて寝返りをうてだの言って、必死に見ないようにするしかなかった。
ずーっとずーっとそうすることしかなく、でも一向に目をそらすことのできない私の焦点を『悲しみの秘義』の文章は、ゆっくりと違う方向に持って行ったのである。
かつて日本人は「かなし」を「悲し」だけでなく、「愛し」あるいは「美し」とすら書いて、「かなし」と読んだ。悲しみにはいつも愛しむ心が生きていて、そこには美としか呼ぶことのできない何かが宿っているというのである。ここでの美は(中略)苦境にあっても、日々を懸命に生きるものが放つ、あの光のようなものに他ならない。
大切なひとをなくす。その悲しみの元には、誰かを思う気持ちがある。それがちゃんと美しいものであることを人は知っているというのである。悲しいという気持ちは闇に例えられることが多い中で、それを持ったまま生きる人は光を放つと、著者の高橋さんは言い切る。
さらに高橋さんは、宮沢賢治の『小岩井農場』という詩の一部を引っ張って来ていた。
もうけっしてさびしくはない なんべんさびしくないといったところで またさびしくなるのはきまっている けれどもここはこれでいいのだ すべて寂しさと悲傷とを焚いて ひとは透明な軌道をすすむ
寂しさと悲傷とを焚く。なんて表現だろう。悲しいことも、居ないという事実も、寂しさも全部受け入れていなければ「焚く」なんて言えない。勇気に満ちて、零れている表現である。焚いて得るのは温かなオレンジ色の光だろうか。涙が透明であるように、そうやって進む人の軌道も、限りなく透き通っている。
更に文章はこう続く。
逝った大切な人を思うとき、人は悲しみを感じる。だがそれはしばしば、単なる悲嘆では終わらない。悲しみは別離に伴う現象ではなく、亡き者の訪れを告げる出来事だと感じることはないだろうか。
愛しきものが、側にいる。どうしてそれを消し去る必要があるだろう。賢治がそうだったように悲しみがあるから生きていられる。そう感じている人はいる。
悲しみが波のように、引いても引いても絶対にやって来るのは、その人が来てくれているのと同じことだという。生きている者の都合よい考えだったとしても、それは素晴らしくて、あっぱれだ。
『悲しみの秘義』の中では、悲しみを乗り越えろとも、抱えろとも言わない。決して、押し付けてくることはなく、”悲しみがあるから生きていける、そういうこともある。”と言っている。一見大きな矛盾に見えても、悲しみは、生きていく意欲をそぐ側面だけではなく、生きていく理由にもなりえると、静かに語る。
こうやって矛盾に支えられて生きている人がいる事実を、淡々という。
今の今でも、
悲しみは悲しみのまま、変わったわけでも何でもないけれど、
読み進めれば読み進めるほど、今まで見えてなかった、当たってなかった焦点が、浮かび上がるのである。
そして呼吸が、深く、楽になっていくのである。
いつもありがとうございます。 頂いたサポートは、半分は新たなインプットに、半分は本当に素晴らしいNOTEを書くクリエイターさんへのサポートという形で循環させて頂いています。