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いつも見たいのは、その先にあるもの
人が書いたものには、とっても大きな"奥行き"があります。
もっというならば、書かれていること(書くぐらい表に出てきたもの)というのはピラミッドの頂点のようにちょこっと顔を出すほんの一部ぐらいなものなのでしょう。その下に伸びる奥行きは末広がりに伸びているけれど、無意識の海に浸かっているので本人さえもその深さを知り得ません。表に出しているものだけが全てではありませんし、本体はその下の方なのです。
人の文章を読むこと、そして自分の文章を書くこと。それは自分ないし人の無意識の海に浸かっている部分に何があるのかを繰り返し潜って探しているようなものです。一見相反することのように見えて、同じであります。対象が自分なのか、自分ではない誰かなのか、その違いだけであります。そしてそれはどちらもとても癒されることなのです。
今日、どこかの素敵なエッセイの中に「noteって落ち込んでる人ばかりじゃない?と誰かが言っているのが聞こえた..」と書いてあるのを見て思いました。
「それがどうしたの」
落ち込んでいる文章が多くてもそれが書いた人のたったの一部であり、その背後に続くその人なりのストーリーや、なんでその文章を書くことに至ったのかなど書かれなかった部分を潜って見つけ、または想像して読むから良いのです。
いろんな文章に既に書いていますが、人には書かれたことより書かれなかったことの方が多く、撮られたものより撮られなかったものの方が多く、語られたことより語られなかったことの方が多いのです。そんなものばかりを集めて青暗い空に飾る一夜があるならば、どんな綺麗な夜になりましょうか。
私はそう言ったものに想いをはせて愛して生きていきたいのです。
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