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狂気、快楽、堕落。それが芸術だ。 ばるぼら

頭がズキズキする。殴られたような衝撃と引かない神経痛は薬一錠で治せるのだろうか。

頭が痛いなと感じたのは一本の映画を観終わってからのことだった。

「ばるぼら」

手塚治虫原作の「ばるぼら」を息子の手塚眞が監督・編集を担当し、”映像化不可能”と言われていた漫画が待望の映像化にこぎつけた。

手塚治虫 禁断の問題作
禁断の愛とミステリー、芸術とエロス、スキャンダル、オカルティズムなど、様々なタブーに挑戦した大人向け漫画「ばるぼら」。愛と苦悩に満ちた大人の幻想物語。
<ばるぼら>という名前のフーテンの少女と出会った作家・美倉洋介が、小説家としての悩みを抱えながら、成功し、名声を得、それを失い、破滅するストーリーにはさまれたオーブリー・ビアズリーの線画のような耽美的なカットや、ムネーモシュネーのような女神像、ポール・ヴェルレーヌの詩、西洋の哲学者や作家の名言、それに退廃的な芸術論が盛り込まれ、随所に文学好きや芸術好きの心をくすぐる仕掛けが施されている。ばるぼらは、美倉にとっては詩をつかさどる女神ミューズのような存在であり、芸術の神様は、ギリシャ神話の美の女神みたいなきれいなものじゃなくて、貧乏神の向こうを張れるぐらいみすぼらしい、少し素っ頓狂な神様なんじゃないか…?というのが、手塚治虫の芸術観として垣間見れる、異色の名作である。
(公式サイトより引用)

1973年から74年まで「ビッグコミック」で連載されていた「ばるぼら」、その10年前には「鉄腕アトム」を世に生み落とし、1973年以降も「ブラックジャック」などを手掛けていく手塚治虫作品の中でも、明らかに異質な作品であるのがよくわかる。

人間の根底に潜んでいる変態性と狂気が存分に詰め込んだ今作は、生活のために作品をしたためる作家が追い求めた芸術性と異常な性欲が混沌としていて、背筋が凍ってゾクゾクする。連載開始とともに、これは手塚治虫本人を投影している作品なのではないかと噂も立っていたようだ。

ストーリーの中心地は新宿で、新宿という街が昔の薄汚さと現代のビルが聳え立つ綺麗さが比較対象としてよく出てくる。上を見上げれば時代の最先端を作る未来を見据えたと思えば、足元にはポイ捨てされたゴミが散乱し、不法投棄されて放置されたインテリアが不揃いに並べられている。

地下道にみすぼらしい格好で酒に溺れて倒れていたばるぼらを介抱したところから関係が始まる。

芸術とは、絶対に手に入らない女神のようだ。

そう言い捨てた稲垣吾郎演じる美倉洋介は、何色にも染まらない、二階堂ふみ演じるばるぼらに御執心で、それまでの作品を手放して酒に浸って狂った毎日を送るようになる。

ばるぼらがいてくれたらそれでいい。後は何もいらない。

作家としての人生を捨て、本能のままに、性的な欲を満たしながら、ただそこにいてくれている気がする不確かなばるぼらにしがみついている。

狂気的で、美しいと一言でまとめられないほどの人間の複雑さがスクリーンに映し出される。性描写の中でも人間の感情の退廃的な一面を垣間見る。

偏に美しいと言いたくなるのも足りなさを感じながら、衝動がもたらす破壊と快楽に、私自身も前のめりになって魅了されていた。

大人が故の艶っぽさと、間に挟まってくるファンタジーさに手塚治虫作品の醍醐味を体感した。

人間欲はこれほどに人を壊して、人を生かし、人を芸術の存在に押し上げるのか。
芸術に対する解釈の一面を知るには、この作品はこの上ない貴重な資料となりうるのではなかろうか。

ときには狂気さすらも発散しないと一般社会で生きていられない。
この作品が気持ち悪さを吐き捨てる捌け口になるのは想像に難くない。

映画館でトランスに陥りながら、そのままの足で本屋で文庫本のばるぼらを購入していた。私もばるぼらを探し求めてしまう一人になってしまうのかもしれない。

「ばるぼら」はデカダニズムと狂気にはさまれた男の物語である。手塚治虫

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ひの
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