『ハーフ・オブ・イット: 面白いのはこれから』不器用に少しずつ愛に向かって手を伸ばしていく物語
■ Watching:『ハーフ・オブ・イット: 面白いのはこれから』
「愛とはどのようなものか?」
高校生のエリーが、他人の言葉を通してしか知らなかった(他人の言葉ではよく知っていた)それを、自分の体験を通して少しずつ知っていく物語と言ってもいいだろうか。
どこがどう、という説明をするのが難しいのだけど、とても好きな物語だった。これから先も繰り返し観たいと思える作品に出会うことができて嬉しい。
「誰かのために努力するのが愛だろ」
一番刺さったのはポールのこの台詞とそれを体現する姿勢、そしてこの言葉に影響を受けたエリーだった。
ポールがそれを発した段階でこれは私も心に留めておきたいことだと思ったのだけど、さらにいつも淀みなく話す頭脳明晰なエリーがほぼ初めて戸惑いながら発したのが「あなたは誰よりも努力してる」「努力するのが愛じゃないなら何が愛なの?」だったのが、本当に良くてぐっときた。物語が「転」に入る教会で、愛を説明するときにエリーがこの言葉を使うのも。
しかし最後、その他の偉人の言葉と同じようにエリーの愛についての言葉が出るときはそれが抜けており、そこにはエリーの言葉だけが並んでいる。そこまで含めて美しいと思った。
Love is messy and horrible and selfish
...and bold.
ELLIE CHU
(愛は厄介でおぞましくて利己的
それに大胆
エリー・チュウ)
The Half of It
観終えてからずっと、タイトル『The Half of It』について考えている。"It"とは何を意味しているのだろう?そして、"The Half of It"とは?
"It"をプラトンの言うところの「かつて完全であった人間」とするならば、"The Half of It"とは登場人物たちをはじめとした人間一人ひとりだろうか。
プラトンは「自分の半身に出会えばすぐに分かる」と言うけれど、この物語の登場人物たちはそうではない。エリーが言うように、この物語は恋愛ものでも、望みが叶う物語でもない。エリー、ポール、アスター、みんな"The Half of It"のはずだけど、どの2人の組み合わせもひとっ飛びに"It"になるわけじゃない。一筋縄でいくわけじゃないよね、という反駁的なタイトルなのだろうか?
半分という観点で考えてみるとすぐに思い至るのは、アスターの半身たり得た「虚構のポール」だ。"It"を「虚構のポール」とするならば、"The Half of It"とはポールまたはエリーだ。
思い返してみれば、エリーとポールは画面を半分に分け合うようなシーンが多かったような気もする。
例えばエリーが自転車をこぎ、ポールがそれに並走するシーンは劇中を通して何度かあったが、画面の真ん中に映る中央線を挟んで2人は左右に位置していた。教会でポールが書いた手紙を読むシーンは十字架を挟んで、会話の練習として卓球をするシーンはネットを挟んで…単なる偶然かもしれないけれどその数はかなり多い。
なかでも特に印象的だったのは、アスターとの初めてのデートの後、使われていない電車の中でエリーとポールが話しているシーン。画面の真ん中に映る座席列を挟み、やはり2人は左右に分かれて位置していた。そのときのポールの台詞も印象深い。
I can do this......WE can do this!
邦題で「面白いのはこれから」という言葉が続くことを考えると、この映画で描かれているのはその半分、まだ途中なのですよ、ということを表す"The Half of It"なのかもしれないという気もする。
It's Happening In SQUAHAMISH(活気のある町 スクアヘミッシュ)
- 宗教という視点
舞台は白人の敬虔なキリスト教徒が大部分を占める田舎町・スクアヘミッシュ。この環境において、中国からやってきており、同性に恋心を寄せているエリーのマイノリティ性は高い。そして、サクラメントから引っ越してきたメキシコ系のアスターも。
私は「自分はアライである」と胸を張って宣言する自信はないけれど、アライとして生きたいと考えている(セクシャルマイノリティの文脈においても、それ以外においても)。そして、皆そうあるべきだ(=そうしなければならない)とも考えていた。
しかしこの作品を見て、信仰がその壁となる可能性があるということについて改めて考えさせられた。特定の宗教を信仰しない私にとって、この目線は欠けがちであった。それがどのような影響をどの程度及ぼしているのか、その実際のところは分からないものの覚えておかねばならないと思った。
- スクアヘミッシュ
それと明言されているわけではないものの他に登場する地名などから、スクアヘミッシュがワシントン州の町であることは確かだが、これは私にとっては少し意外だった。ワシントン州は全体で見ればアジア系の比率が低いわけではなく、「最も信心深い州」ランキングもかなり下位なので。
『悪魔はいつもそこに』(オハイオ州)や『スリー・ビルボード』(ミズーリ州)に近い雰囲気を感じたので、なんとなくアメリカ中西部だろうか?と思っていた。
私の中で中西部というと上記2つの映画のイメージが強く、田舎なのかな?共和党支持のいわゆる赤い州が多いのかな?と思っていたのだが、それもまた違っていた。実際のところ中西部にはシカゴのような都会もあるし、赤い州、青い州、スイング・ステートが混在している。
どちらかというと、中西部のイメージというよりは、アメリカの田舎町のイメージと言うべきなのかもしれない。いずれにせよ、州やなんやといった大きな括りで全ての物事を判断できるわけではないということも改めて感じた。
(2022.02.21)
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