西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の29]
4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き)
4.5 愛の思想と日本語人
4.5.2 本居宣長と西洋思想を対比するために
1162. 今回と次回の2回にわたって、本居宣長の「物のあわれ」の説と西洋における愛の思想を対比して検討します。対比するといっても、宣長と西洋思想のあいだには、私の知るかぎり影響関係はないので、少し注意が必要になる。漱石は、西洋思想も学び、キリスト教も知り、恋愛は神聖なものだという考え方も一応わきまえたうえで、近代日本における恋愛の困難を主題にした小説を書きました。主題そのものが近代日本と西洋文明のずれを含意するものだったから、作中人物の言動を西洋の愛の思想と対比して、こういう部分に違いがあると論評することが意味をなしたわけです。
1163. しかし、宣長のように西洋と無縁だった人の考えを西洋思想と対比する場合、考え方が大きく違うのは当たり前です。ここが違うあそこが違うと言っても仕方がない。両者を対比するためには、対比の土台となる共通性を見いだす必要があります。人類共通の関心事に対して、かたや西洋思想、こなた本居宣長が、それぞれどんな応答をしているのか。そういう風に考えないと、たぶん対比は意味をなさない。そういう共通性を以下に列挙します。
1164. 第一の共通性はすぐ見つかります。それは物のあわれとエロースに関する共通性で、両者はいずれも性愛にかかわるということです。どんな社会でも、ヒトのメスとオスが繁殖ペアを作ることは種の存続のために不可欠です。自然淘汰の一つの帰結として、異性指向の男女のあいだには、特定の異性を惹きつけ、また惹きつけられるという性的な関係が生ずる。
1165. 宣長は、この性的な惹きつけ合いの関係を「好色」と呼び、好色において人は他のどんな体験よりも物のあわれを知ることになると言いました(番外編2の12:449)。ひるがえってプラトンは、知への愛(エロース)を究めるには、まず手始めに美しい肉体を恋い求める必要があると述べました(番外編2の17:700)。物のあわれを知ることとエロースが、男女の性的に惹きつけ合う関係にかかわることは明らかです。性愛は、物のあわれとエロースに共通する要素です。
1166. 第二の共通性は、物のあわれとアガペーに関する共通性で、両者はいずれも社会を形成する原理とみなされるということです。両者はそれぞれ人間の向社会性の表現様式となっている。向社会性とは、相手の善を意図して行動する傾向を言います(番外編2の24:984-988)。アガペーも物のあわれを知ることも、相手にとって善になる行動をとるように人をうながすとされます。
1167. アガペーは、神からすべての人に降り注ぐ無差別の愛を言います。そして人は、神がすべての人を愛するごとく、隣人を愛さなくてはならない。どんな相手に対しても、相手の善を願って自発的にはたらきかけなくてはならない。それによって、良好な人間関係が成り立ち、社会が形成されるわけです(番外編2の23:918)。
1168. 他方、宣長は、物のあわれを知れば、「世の人のために悪しかるわざはすまじきもの」(番外編2の12:462)と思うようになると言いました。というのも、親の気持ちを子が深く理解すれば親不孝は起こらず、民衆の苦労を深く理解すれば思いやりに欠ける主君はいなくなるはずだからです(同463)。つまり、物のあわれを知る者は、相手の気持ちに感応しておのずと相手のために善を意図するようになる。儒仏到来以前の日本では、こうしてお互いの気持ちに感応するだけで、天下は何事もなく穏やかに治まっていた(同461)。このように、ヒトの向社会的な行動をうながし、社会形成の原理となるということは、アガペーと物のあわれの説の共通の要素です。
1169. 物のあわれの説とピリアー(友愛)については、明快に共通性を取り出すことは難しい。とはいえ、不可能ではありません。ピリアー(友愛)は、友人関係にとどまらず、良好な人間関係一般を言い、商取引から恋愛まで含みます(番外編2の18:735)。恋愛にかかわる点で、ピリアーは、エロースと並んで物のあわれの説と共通するところがある。また、真のピリアー(友愛)は、「友に対して善きものを、友のために願う人たちどうし」(同745)のあいだに成り立つとされます。相手の善を願う向社会性という点で、ピリアーはアガペーと並んで物のあわれの説と共通します。してみると、物のあわれの説とピリアー(友愛)のあいだには、恋愛から向社会的行動一般まで、良好な人間関係をかなり広く言い表すという共通性がある。これを第三の共通性と見ることができます。
1170. 以上の三つの共通性にもとづいて、物のあわれの説とエロース、アガペー、ピリアーのそれぞれについて、どのような相違点が見いだされるのかを、以下で考えて行きます。
4.5.3 物のあわれの説と西洋における愛の思想の相違点
物のあわれとエロースの相違点
1171. 物のあわれとエロースは、ともに性愛の欲求にかかわりながら、以下のような違いがあります。エロースの追求は、恋愛体験の延長上に真の実在を知る体験を想定するのに対し、物のあわれの追求は、主として物語の世界における審美的体験にとどまり、現実世界で真の実在を知る体験には結びつかない。物のあわれの説は、この世界の成り立ちを根本から問うといった認知的な欲求と関係しないのです。
1172. そんなことは当たり前で、性愛と真実在の知を結びつけるプラトンの方が変わってるのだ、と言われそうですが、どっちが変なのかはさておいて、この違いは重要です。というのも、前回見たように、大江健三郎は、自分の作品について、「一人の人間がはっきり成長していく過程として、それ〔性的な状況〕をとらえることはできなかった」と述懐しているからです(番外編2の28:1136)。性愛が人間をより高次な水準にもっていくというあり方を提示できなかった。大江健三郎はそう自認しています。
1173. この自認と、物のあわれの説がこの世界の成り立ちへの問いとは無関係であるということは、関連がある。宣長以外の多くの言説を調べないと確たることは言えませんが、性愛にかんする日本の伝統的なとらえ方は、愛は人を魂の高みに連れて行くという考え方と、縁がないのかもしれません。「魂の高み」とは、この場合、恋愛の高揚感や幸福感のことではなく、世界についてより深く理解し、よりよく生きることができる状態のこと、つまり「一人の人間がはっきり成長していく」ようなあり方のことです。日本では、性愛はその種の人間の成長と関係しない。物のあわれの説は、暗にそう告げているように思われます。
エロースと真の実在 ――そのつながり
1174. エロースは、自分に欠けているものを追い求める内なる根源的な力であり、美しいものやよきものを永遠に自分のものとして持つこと、つまり不死性を求める欲求であるとされます。この欲求は、まずは美しい肉体を求める性的な愛として始まる。次いで魂のうちにある美しさを追い求め、さらに人間の営みや知の美しさを追い求めることを経て、最後には不生不滅の美のイデアを知るに至ります。この過程は人の生の理想的な進み行きとして語られている。この現実世界において、性愛は人が不死性にあずかるための力になっていると言うのです。(番外編2の17:699-710)
1175. イデアは感覚される世界ではなく知性のとらえる世界に存在します。個々の美しいものは感覚できる。しかし、美しさそのもの(美のイデア)は、感覚ではなく思考(知性)がとらえる。というのも、一輪の花を見て「美しい」と述べるためには、それに先だって、美しさとは何かが〝わかって〟いなければならないからです。この〝わかる〟はたらきは、美しいものに共通する美のイデアを〝知る〟はたらきであって、一輪の花を眼で見ることとは違います。
1176. 人は、しかし、「この花は美しい」と語るとき、美のイデアを〝完全に知って〟いるわけではない。人は美しさそのものを完全にはとらえていない状態で、美しさそのものを追い求めつつ、一つひとつの美しいものを見い出したり作り出したりする。とはいうものの、論理的な順序としては、美しさそのものの知(多かれ少なかれ不完全な)があって、はじめて個々のものが美しいものとして認知できるわけです。すなわち、知性的な世界に恒常不変の仕方で実在する――だが人が完全にはとらえきれない――イデアは、感覚的な世界の個々のものが何であるかということの存立の根拠になっている。その意味で、感覚される個物ではなく、永遠不滅のイデアこそが真の実在なのです。*
注*: 以上はイデア論の簡略な紹介ですが、『国家』457E‐476D、『パイドン』78D‐79A などを参照しました。なお「「美しい」と述べる」という日常の言語使用に寄せた説明は、プラトンを特に参照せずに、とりあえず私の考え方を記したものです。
1177. エロースは、性愛の感覚的世界から出発しながら、感覚的世界の存立根拠になっている知性的な世界へ向けて人を衝き動かす力です。性的な欲求を自然に延ばして行くと、世界の存立根拠を追求する哲学的な欲求になる。エロースはそういうものとして規定されています。
物のあわれと真の実在 ――その断絶
1178. 「物のあわれを知る」とは、ものごとに深く感じて動かされることを言います。だが、基本的に審美的な感動の水準を離れることはなく、世界の存立根拠を追求することには向かいません。物のあわれを知ることが現実世界のあり方を問う方向に向かわない理由は、二つの側面から説明することができます。
1179. ひとつは、物のあわれの説が、主として物語の世界を理解するための装置として導入されており、現実の世界に適用することを必ずしも予定してはいなかった、という当初の設定の制約にかかわる側面です。物のあわれを知ることは、物語の虚構世界では常に肯定されますが、現実世界では物語と同じように肯定されるわけではない。だから、物のあわれの追求は、現実世界のあり方を問う方向へ展開することが難しいのです。
1180. もうひとつは、物のあわれの説は事物に対する感動体験(物のあわれを知ること)と事物の本質の認識(物の心を知ること)を同一視する傾向が強い、という認識論上の制約にかかわる側面です。この傾向のために、物のあわれの説は、当初の設定を越えて現実の世界に適用されると、人の感じ取ることと事物自体の属性が融合してしまうことになりやすい。このような融合は、感動とは別に、事物自体の本質を問う方向へ探究を進めることを妨害するはずです。物のあわれにこだわると、現実世界のあり方を客観的に問う方向へ進みにくいのです。
物のあわれの当初の設定とその制約
1181. 宣長は、「とかく物語を見るは、「物の哀れを知る」といふが第一なり」(『紫文要領』46頁*)と宣言します。物語を味わうには、物のあわれを知ることを最も心がけねばならない。儒仏の教えのごとき、わが国の物語と無縁な「よしなき異国の文」(同47頁)にもとづいて物語を論じたりしてはならない。これは宣長の終生変わらぬ立場だった。(番外編2の11:443、同2の12:471-488)
注*: 日野龍夫(校注)『新潮日本古典集成 本居宣長集』(新潮社1983)所収の『紫文要領』の頁付け。以下同じ。
1182. 「物のあわれを知る」とは、一定の感動を伴ってある物をその物として知ることです(番外編2の11:424, 425)。感動は物語の世界にのみあるわけではなく、現実世界でも当然生じますが、宣長の関心は物語や歌を味わって知ることに向けられている。宣長は大略次のような例で説明をしています。
1183. よその家の娘に懸想して恋焦がれる男は、娘の容姿の美しさに感動したのである。その娘が父母に隠れてひそかに男と逢って寝るとしたら、それは男の気持ちに感動したからである。男も娘も物のあわれを知る(物事に深く感動する)がゆえに、そんな思いを抱き、そんな行動をするのだ。そして、物語にはこの類いが非常に多い。だが、物語がそれを記すのは、善いこととして勧めるためでも悪いこととして戒めるためでもなく、物のあわれに関心を持つからである。善悪の分別は棄てて関知せず、物のあわれを取るのが物語のあり方だ。(番外編2の11:430, 442;『紫文要領』88~89頁)
1184. 歌や物語は人の愚かで未練な気持ちを素直かつ優美に表現している。人間を衝き動かす感動を深く理解するためには、儒仏による善悪の分別は邪魔になる。歌や物語をよく味わうためには、儒仏の教えは障害でしかない。これは文学理論としては明快ですぐれたものでした。
1185. しかし、愚かで未練な気持ちの表出は、現実世界でも善悪の教えを度外視して高く評価されるべきなのかどうか。宣長は、人は現実に愚かで未練なものだと明言しますが、現実世界でそうであることを高く評価するとは言わない。上述のように(1168)、現実の社会生活においては、物のあわれの説は、他人の気持ちを思いやるという程度の微温的な教えに矮小化されています。道徳規範を突き破って表出される愚かで未練な行動を高く評価する方向には発展しなかった。物のあわれの説は、規範より個人の気持ちを重視し、現実世界のあり方を根底から問い直す、という方向には進まなかったわけです。
物のあわれの認識論上の制約
1186. 物のあわれの説が事物への感動体験と事物の本質認識を同一視する傾向をもつことは、番外編2の15でやや立ち入って検討しました。大略、以下のような議論です。
1187. 宣長は、「物のあわれを知る」という感動体験と、「物の心を知る」という事物の本質認識を、同じものとして述べることが多い。だが、二つを分けて、事物が何であるか知る(物の心を知る)ことと、知った内容にしたがって感じる(物のあわれを知る)ことを別立てにすることもある。宣長は、二つが分けられることを理解していたが、あえて分けない方向に議論を進めていく。感動体験と本質認識を分けないことを可能にしたのは、宣長の関心が、もっぱら審美的な特性――その存否が感性的判断で決まるような特性――の認識に向かっていたからだ。対象の美しさに感動するならば、対象が美しいと認識しているはずであり、対象は美しいと認識するならば、対象の美しさに感動しているはずである。美に感動することと美を認識することは、こうして同じ一つの事柄になる。だから、宣長は感動体験と本質認識を分けないですんだのだ。(番外編2の15:595-631)
1188. この議論は大筋では間違っていないつもりですが、荒っぽいものです。美への感動と美の本質認識が一致しない事例はあると思います。例えば、下のマーク・ロスコ(Mark Rothko 1903-1970)の作品を見て、感動したとしても、その感動がただちに作品の本質認識だと言えるのかどうか疑わしい。私は、マーク・ロスコの絵になぜか見入ってしまうのですが、つまり、感動するのだけれど、そのとき私はこの絵の本質を認識していると言えるのかどうか疑問です。
1189. 村上隆が示唆していたように、「芸術(「ART」)とは、芸術家がみずからの歴史的な位置を確認しつつ、既存の理念を打破し、自分の制作が出発点(origin 起源)となるような新しい歴史を開始する活動」(第1期その16:4.188)であるとするならば、私のたんなる感動が、マーク・ロスコの作品の本質認識である、つまり作品に結実した藝術家の活動の認識であるというのは、ちょっとおこがましい気がします。作者についても現代美術の歴史についても、もっと勉強して認識を深めた方がいい。その方が感動も深くなるはずです。
1190. しかし、私にはこれと反対の経験もあります。三十数年前、たしかロンドンのナショナルギャラリーだったと思いますが、正面玄関を入って左手横の展示室に入ると、天井が高くて体育館みたいに広いその室の、四方の壁面のそれぞれに、大型の絵画ばかり数点ずつ、全部で十数点余りが展示されている。展示室の真ん中辺りから四方の壁を見渡すと、なんだか気圧されるような圧迫感がある。「なんかすごいな、これはちょっと凄い」なんて同行の妻に言いながら壁面に近づくと、正面はダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」である。横にはミケランジェロがある、あっちにはウッチェロがある、「えっ、ええっ、なに、ここ凄いじゃん、すごい凄い、この美術館すごい、ものすごい絵ばっかり!」
1191. その室は、〝急ぐ人はこの部屋だけご覧なさい〟という、観光客向けに傑作だけ集めた特別な展示室だったのでした。だから、なんも考えてない見物客(私です)が、パッと見ただけで、なんか圧倒される力を感じてしまう。つまり感動してしまう。そして、その感動は、そこに集められた絵の本質、ヨーロッパ絵画の傑作中の傑作が放出する圧に呼応したものだった。だから、感動体験と本質認識は一致すると言い得る面もあるわけです。
1192. 私はなにが言いたいのか。感動体験と本質認識を分けない宣長的な認識論は、審美的な体験において、まったく成立しないわけではないが、感動があれば本質認識を知的・言語的に突き詰める必要はないとは言えないんじゃないか。こう言いたい。つまり、藝術の理解は「あ、はれ」「ああ、なんとまあ」と感じ入って動かされることに尽きるとは言えない。感動は必要条件かもしれないが、作品をよく理解するための十分条件ではないだろう。まして、物のあわれの説が、藝術の領域を越えて現実生活に適用された場合、事物に深く感じ入れば事物の本質を認識するのに十分である、ということにはまずならないでしょう。
1193. 以上のとおり、物のあわれの説は、当初の設定の制約からいって、現実世界に適用することが予定されておらず、認識論的な制約からいって、たとえ適用してもうまく機能しない、と予想されます。
1194. 物のあわれとエロースの相違を再度確認しておくと、エロースは、性愛から始まって魂の高みに人を連れて行き、世界の真のあり方を知るように人をうながすはたらきを持つ。これに対し、物のあわれを知ることは、性愛を含む人の切実な心情に感動する力を高め、人が藝術作品を深く味わうことをうながすはたらきを持つが、世界のあり方を知ることにはかかわらない。このように対比することができます。
物のあわれの説とアガペーの相違点
1195. さて、物のあわれの説とアガペーおよびピリアーとの相違点については、詳しい検討は次回に譲りますが、どのような相違があるか、概要を述べておきます。
1196. 物のあわれとアガペーとの共通性は、両者とも社会形成の原理として、相手にとっての善を願って行動することをうながす、という点にありました。両者の相違点は、以下のように述べることができます。
1197. アガペー的な人間関係にもとづく向社会的行動は、過去のいきさつから自由に、どんな相手に対しても、相手にとっての善を願って自発的にはたらきかけることである。これに対し、物のあわれを知ることにもとづく向社会的行動は、親子や主従のように一定の関係性が成立している相手に対し、相手の心情に感応して、その期待に反しないように行動することである。
1198. 別の言い方をすると、アガペー(愛)による行為は、過去のいきさつから自由に、行為者自身の意志的な愛によって生じる。これに対し、物のあわれを知ることによる行為は、相手との関係性を前提とし、それに伴う相互の心情に規定されて生じる。もっと縮めると、アガペー(愛)による行為は、行為者の自由意志から生じるが、物のあわれを知ることによる行為は、行為者が人間関係に束縛されて生じる。一方は自由によって、もう一方は束縛によって生まれる。同じく向社会的行動であるといっても、成り立ちは大きくちがいます。
物のあわれの説とピリアーの相違点
1199. 物のあわれとピリアーとの共通性は、恋愛から向社会的行動一般まで広い範囲の良好な人間関係全体に見いだされる、という点にありました。両者の相違点は、以下のように述べることができます。
1200. まず、ピリアー(友愛)とはどういう関係だったのか、確認しておきます。真のピリアー(友愛)は、徳(アレテー)をもつ善き人々のあいだに成り立つ(番外編2の18:754)。徳をもつとは、善いことを好んで行なう性格をもつということである(同:759)。善いことを好んで行なう性格をもつとは、人が自分の望みを実現するべく行為する際、社会的に善い行為類型に自分の望みを一致させるように、理性的思考によってその人が習慣づけられている、ということを意味する(同:761-763)。こうして真のピリアー(友愛)は、それぞれが理性的に願望すると同時に社会の幸福にも役立つような善きことを、お互いに相手のために願う人々のあいだに成り立つ(同:772)。
1201. 簡略に言うと、ピリアー(友愛)とは、願望と善を一致させることができるような理性的な人々のあいだで、互いに相手のための善を願うような関係が成り立つことである、というわけです。行為する際に、理性的な思考が介在する点が、物のあわれの説との相違点となります。
1202. 物のあわれを知ることにもとづく人間関係は、アガペーとの対比で述べたように、相手の心情に規定されて行為することから生まれます。上で見た男女の恋愛の例(1183)では、女は、「その男の心を哀れと思ひて」男に逢うのであり、それは「女の心に男の心ざしを哀れと思ひ知る」ゆえなのです(番外編2の11:430, 432)。「あわれと思う」とは、「ああ、なんとまあ、と思う」ということです。相手の気持ちに感情移入し、それに動かされて、女は男に逢って寝る。理性的な思考の介在は必要とされません。恋愛以外の例でも同じで、我が子を思う親の気持ちに子が感情移入し、主人は奉公人の苦しみに感情移入して、それぞれ相手の気持ちにただちに反応するならば、世の中はうまく行く、ということでした(1168)。理性的な思考の介在は必要ないのです。
1203. 物のあわれの説とピリアー論との相違点は、したがって、広い範囲の良好な人間関係の成立に、理性的な思考が介在することが必要とされるか、あるいはされないか、という点に見出されます。
1204. まとめて言うと、こうなります。西洋の愛の思想と対比した場合、物のあわれを知ることは、エロースと違って、世界の存立根拠の探求につながらす、アガペーと違って、行為者の自由意志を前提せず、ピリアーと違って、社会的関係において理性的思考を要請しない。物のあわれの説は、真実在の認識と自由意志と理性的思考にかかわらないことが判明したわけです。この結果はなかなか衝撃的なので、もうちょっと考えてみたい。ということで、この続きは2月10日に。
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