西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の31]
5.近代(modern)と脱近代(postmodern)
5.2 観念説(続き)
1244. 前回、本居宣長の「物のあわれを知ること」の認識論を検討して見いだしたことは、宣長は懐疑論の洗礼を受けていなかったようだ、ということでした。なお、懐疑論とは、さしあたり、自分は真理に到達できないのではないか、という疑いのことをいうものとします。懐疑論は、人間は真理に到達できないのではないか、という一般的な形式も可能ですし、お前たちは真理に見放されている、という論争的な形式で現れることもあります。宣長の場合、天照大御神とは日輪そのものだという自分の主張に誤りの可能性がある、とは少しも思わなかった。主観的確信と客観的真理はどこまでも別物として扱う必要があるなどとは考えておらず、研鑽の末に到達したみずからの見解を疑う姿勢はなかったようにみえます。
1245. おそらく江戸期の日本の読書人は懐疑論に取り憑かれたことがない。文明開化を推進した明治以降の日本の知識人もその経験は乏しい。ただし、文明開化に疑いをもった夏目漱石には、かなり深刻な懐疑が見られます。漱石の懐疑は、文学とは何かという問いにかかわる懐疑だった。自分が親しんできた漢文学はもはや通用しない。新たに学んだ英文学にも得心が行かない。どちらへ進めばいいのかわからず立ちすくむ。漱石はこういう経験をしました。(番外編2の3)
1246. 明治期には、似たような自己分裂を経験した人がほかにも数多くいたはずです。福沢諭吉も、今の世の洋学者は少し前には漢籍を学んでいた者たちである、その体験は「あたかも一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」(『文明論之概略』緒言)と言っています。しかし、福沢はこの分裂をむしろ有利なことだと考えた。かつて学んだ漢学と現在学んでいる洋学を照らし合わせれば、その議論は必ず確実なものとならざるを得ないと言っています(同上)。文明開化を推し進めた人々は、疑いを懐いて立ちすくんだりせず、あっさり西洋近代文明に学ぶ方向に舵を切ったのだった。
懐疑論という難関
1247. 西洋近代文明は、しかし、懐疑論のなかから出現してくる。懐疑論がもたらす苦境をどのようにして切り抜けるかという問いは、近代初頭の人々にとって死活問題だった。16世紀初めから17世紀半ばの宗教改革と宗教戦争の時代に、カトリック教会とプロテスタントの諸派は、互いに相手方の信仰が疑わしい根拠しかもっていないと攻撃し合いました。*
注*: 以下、懐疑論と宗教改革の結びつきの記述は、リチャード・H・ポプキン『懐疑 近世哲学の源流』野田又夫、岩坪紹夫訳、紀伊國屋書店1981にもとづきます。なお、引用に際し、適宜訳文を改める場合があります。
1248. ルター(1483-1546)は、ローマ教皇や公会議の認可はたんなる意見表明にすぎず、疑ってさしつかえない。そして、みずから聖書を読んで良心が信じるものが信仰の基礎になると主張します。
「私たちはみな司祭であり、みなが一つの信仰、一つの福音、一つの秘蹟〔見えない恩寵〕をもっている。それならどうして、私たちが、信仰において何が正しく何が間違っているのか、吟味し判断する力を持つと認められないことがあろうか。」*
ルターの考えでは、信仰とは、教会の権威に従うことではなく、自分の良心が神の言葉に捕らえられることを意味しました。つまり、聖書を読んで自分がどうしても信じざるを得ないと見いだすことだけが宗教的真理なのです(ポプキン前掲書pp.3-4)。
注*: ルター「キリスト教界の改善についてドイツ国民のキリスト教貴族に訴える」、松田智雄(編)『世界の名著 ルター』所収p.94より。ただし、訳文はあらためた。
1249. カルヴァン(1509-1564)も、聖書が神の言葉であることを体験することが信仰の基礎であると言います。カトリック教会の権威は聖書に依るのだから、宗教的真理の源泉は教会ではなく聖書である。聖書を読み、それが神の言葉であることを体験することが、心の中に起こる信仰の体験にほかならない。それは「われわれの精神がいかなる理由におけるよりもよりたしかで揺るがぬ安らぎをもつ」(ポプキン、前掲書p.12の引用)ことに基づいており、「天の啓示からのほか生じ得ないような感情」(同上)として成立するとされます。
1250. ルターもカルヴァンも、ローマ教皇とカトリック教会の権威を認めず、自分で聖書を読んで、神の言葉として信じざるを得ないと自分が見いだした事柄だけが、自分自身の信仰の根拠となる、と言った。伝統的権威を疑って、みずからの内的体験を信ずる、ということです。ここには、懐疑を経て、自分の立場を確立する、という懐疑の肯定的な効用がよく表れています。
1251. しかし、懐疑論は、論法としてそれだけ取り出せば、人間は真理を知ることができない(知識の否定)、あるいは、真理を知るとも知らないとも決めることができない(判断中止)という消極的・否定的な主張につながります*。この否定的な主張としての懐疑論は、人が真理を知る可能性自体を突き崩すものです。カトリック教会とプロテスタント諸派は、論争の中では、お互いに相手方をこの否定的な意味での懐疑論者と見なして非難し合いました**。
注*: 知識の否定に行き着く類いの懐疑論を「アカデメイア派の懐疑」、判断中止に行き着く類いの懐疑論を「ピュロン的な懐疑」と呼ぶことがあります。アカデメイア派は、プラトン亡き後にプラトンの学園(アカデメイア)で拠った人々のこと。ピュロンは、紀元前4世紀半ばから3世紀始めに生きたとされる伝説的な古代ギリシアの懐疑論者です。
注**: 以前にも述べましたが(その14:4.88)、「懐疑論者」を表わす古代ギリシア語「スケプティコス」は、名詞「スケプシス」に由来します。この語は、元々は「見ること、考察すること、探究すること」を意味する言葉でした。肯定的にとらえれば、「懐疑論者」とは〝探究を続ける者たち〟ということです。否定的にとらえれば、〝いつも疑ってばかりいる者たち〟ということになるわけです。
1252. カトリック教会はプロテスタントの主張に直ちに反撃します。プロテスタントの主張の弱点は明らかです。ルターもカルヴァンも、真理の規準として、聖書を読んで得られる主観的信念しか提出していない。「良心」といい、「揺るがぬ安らぎ」といっても、本人がそう思うというだけのこと。ポプキンは、プロテスタント側の主張の骨子を次のようにまとめています。
「宗教的知識の規準は心の中の信仰(inner persuasion:内的信念)である。この心の中の信仰が信頼できることの保証は、それが神に起因するということである。それが神に起因することを、私たちは自分の心の中の信仰によって確信するのだ。」(ポプキン前掲書、p.13)
信仰の信頼性の裏付けはそれが神に基づくことであり、神に基づくことの裏付けは信仰である。これでは循環が生じるだけで、本人がそう強く思っているという以外の根拠はありません。
1253. 自分に真と思われるものが真であると主張するだけなら、人の数だけ真理はあることになる。これは絶対的な真理はないというのと同じであり、まさに懐疑論者の主張するところにほかならない。カトリック教会はこのように批判しました。プロテスタントは、自分たちが正しいと主張するが、ほんとうは真理などありはないと認める懐疑論者にほかならないというわけです。
1254. 他方、プロテスタントも、カトリック教会の主張は、かえって真理は知られ得ないという懐疑的な結論に導くと指摘します。教会の伝統的な権威という規準は、それ自身の正しさの保証を伴っていない。イグナティウス・ロヨラは「教会が我々の目には白と思われるものを黒と決定したならば、我々もまたそれは黒であると述べるべきである」(ポプキン前掲書、p.5)と言った。だが教会の権威への服従は、規準が教会であると言っているだけで、規準を正当化しない。規準はそれ自体が正しいことが示されねばならない。だが、「ある規準を正当化する試みは、別の規準を要請する。すると、今度はこの規準が正当化されねばならない。」(ポプキン前掲書、p.18) 教会の権威を立証する試みは終わりがない。こうしてカトリック教会の主張には根拠がないことが顕わになる。
1255. また、仮に教会の権威を認めたとしても、事態は少しも改善されない。この点について、17世紀の終わり頃には、次のような手の込んだ面白い論法が提出されています。カトリック教会の主張に従うと、ローマ教皇は不可謬(infallible:判断を誤ることがあり得ない)であり、他のいかなる者も不可謬ではない。では、いったいどの人が教皇なのかを、確実に知る者が誰かいるだろうか。教会の構成員は可謬的であり、判断を誤り得る。すると誰が教皇なのかを確実に知っているのは、教皇その人だけになる。ところが、教会員はそれを確実に知ることはできない。なぜなら、教会員は可謬的な存在にすぎないから、ある人が自分は教皇だと主張したとき、それが本当であるかどうか確実に知るすべはない。だから、宗教上の真理は教皇の不可謬の判断によって定まると決めたところで、誰が教皇なのかが不明なのだから、人々が真理を確実に知ることはない。こうして、カトリック教会の主張は、いずれにせよ、真理は知られ得ないという懐疑論に陥るというわけです。(ポプキン前掲書、p.18)
1256. カトリック教会側もプロテスタント側も、自分の正しさを主張し、相手は懐疑論者であり、真理に到達できない存在にほかならないと非難しました。その結果、既存の権威の信頼性は疑わしく、かつ、個々人の主観的信念が客観的に真であるとは決して保証されない状況が出現したわけです。デカルトの哲学的省察はこのような時代の状況に対する回答でした。
デカルト(1596-1650)
1257. デカルトは、『省察』(1641刊)の冒頭で、自分は年少のころに偽であるものを真であるとして受け入れてきた、だから、「もし私が学問においていつか堅固でゆるぎのないものをうちたてようと欲するなら」*すべてを覆して土台から新たにはじめねばならない、と言っています。「学問において」という限定に注意したい。「学問(sciences)」は、厳密な知識としての諸々の学問ということです。厳密な知識の体系を作り上げるためには、まずすべてを疑わなければならないと言っている。デカルトの懐疑は学問の作り直しのためのものです。
注*: デカルト『省察』「省察一」(野田又夫(編)『世界の名著 デカルト中央公論社1967所収、p.238)。以下、『省察』からの引用は、同書の井上庄七訳の頁で示します。
1258. 『方法序説』(1637刊)の第一部で、デカルトは年少のころ学んだ諸学問への批判を開陳しています。学業の課程を全部終えても、自分は多くの疑いと誤りに悩まされ、無知を自覚するだけだった。歴史や詩や雄弁には熱中したが、これ以上学ばなくてよい。法学や医学などは学ぶ人々に名誉と富をもたらすが、まあそれだけだ。数学は確実性と明証性のゆえに気に入った。神学は尊敬するが、神学的真理は自分の弱い知力の手に余る。哲学の評価は、引用しておきましょう。
「哲学はあらゆることについてまことしやかな話をし、学浅い人々の賞賛を博する手段を与える」(野田(編)上掲書、p.167)
最低の評価です。ここでいう哲学は、中世以来受け継がれてきたスコラ哲学のことであり、自然哲学も含まれていたはずです。
1259. こうして二十歳そこそこのデカルトは、既存の学問を見限り、「世間という大きな書物のうちに見いだされる学問」(野田(編)上掲書、p.169)を求めて、三十年戦争のさなかのヨーロッパを旅します。そして十年余の遍歴ののちにオランダに居を定め(1628年)、学問の根本的な基礎づけに取り組む。そこから生まれたのが『方法序説』や『省察』です。
1260. デカルトの懐疑は、このように学問の世界に適用されるもので、日常生活に適用されるものではなかった。たしかに、「感覚がときとして誤るものであることを私は経験している」(「省察一」野田(編)前掲書、p.239)というのは、日常生活での経験を指しています。だが続けて、「ただの一度でもわれわれを欺いたことのあるものには、けっして全幅の信頼を寄せないのが、分別ある態度〔である〕」(同上)というとき、これは感覚の情報を日常生活で用いるなという意味ではありません。そんなことはできるはずがない。学問的知識に取り入れてはいけないという意味です。
1261. 学問の方法としての感覚への懐疑と拒絶は、以降の科学の発展を視野に入れて言えば、数学という土台の上にまったく新たに物理学の体系を築こうとするとき、感覚経験に頼ってはいけないという意味になる。中世以来のスコラ的な自然学は、三段論法と感覚由来の諸概念にもとづいていました。感覚を頼ってはならないと主張することは、旧来の学問を一掃するために必要だった。
1262. デカルトは、日常生活を送るためには、数学的自然学の建設とは違って、絶対的な確実性を追求してはならないことをわきまえていました。「行動において非決定の状態にとどまるようなことをなくするため」(『方法序説』第三部、野田(編)前掲書、p.180)に、自分は道徳について暫定的な規則をいくつか定めた、と語っています。第一の規則は、自分の国の法律と習慣に服従し、宗教をしっかりと持ち続ける、というもの。穏当で保守的な規則です。
1263. 第二の規則は、行動において、できるかぎりしっかりした、またきっぱりした態度をとる、ということ。「森の中のデカルト」と呼ばれる例が挙げられます。森の中で迷ってしまったら、あちらへ向かったり、こちらへ向かったり迷い歩くべきではない。また一つの場所に留まっているべきでもない。確信はなくても、つねに同じ方向にまっすぐ進むべきだ。そうすれば、当初の目的地とは違うかもしれないが、何処かにはたどり着く。それは森のまん中よりはたぶんよい場所だ。つまり、疑わしい方針でも、いったんそうすると決めたら、結果が出るまでやる方がよいというのです。デカルトは現実の場面では、懐疑や逡巡が有効でないことをよく知っていました。(『方法序説』野田(編)前掲書、p.182)
1264. 第三の規則は、運命よりも自分にうちかつことに努め、世界の秩序よりは自分の欲望を変えようと努めること。ここにはストア派の影響があると言われており、また、道徳的関心が外面的な達成(名誉の倫理)から内面的な自己支配(自律の倫理)に移行する近代的・内省的な傾向が見られます。このあたり興味はありますが、今は立ち入りません。
1265. 既に見たように、デカルトのほぼ百年後、18世紀半ばを生きたデイヴィド・ヒューム(1711-1776)は、懐疑論から脱け出すには「友人と食事をし、バックギャモンをして遊び、会話をして、愉快になる」*しかないと言っていました。人々との交わりにもどると、懐疑論は「冷たく無理のある滑稽なものに見えるので、これ以上それらの考察を行なう気になれない」**のだ、と。(番外編2の24:1002)
注*: ヒューム『人間本性論 第1巻』木曾好能訳、法政大学出版局 1995、p.304。
注**: 同上、p.305。
1266. デカルトにとって、懐疑は学問の領域に限定されたものでした。ところが、ヒュームにとっては、懐疑は日常生活に影響を及ぼし得るものとなっていたことがわかります。そうでなければ、人々と交わって愉快になることで懐疑論が力を失うことはあり得ない。
1267. 「私は考える、ゆえに私はある」というデカルトの定式によって、私の存在が確立され、懐疑論が乗り越えられる。これは哲学史の決まり文句ですが、本当はそう単純ではなかった。ヒュームにいたって、懐疑は日常を侵食するものとなっている。懐疑論は時代を下るにつれてより深刻度を増したのであり、現在に至るまで西洋キリスト教文化圏の思想に影響を及ぼし、それはさらに現代世界の紛争の遠因となっていると思います*。
注*: 神の存在は疑わしいと考える人々と、神の存在は万人にとって自明であるとする人々のあいだの対立は、信教の自由と寛容の原理を認める(前者)か認めない(後者)かという対立となり、日常生活のさまざまな局面で小さな紛争を引き起こすと同時に、大きな政治的衝突の遠因となっていると思われます。
1268. デカルトは神の存在証明によって懐疑論から脱出しました。神の存在証明は、観念(idea)という哲学的装置を使って組み立てられた。デカルト以降の西洋近代の自然科学は、哲学的には、観念説(the theory of ideas)と神の存在証明に支えられています。
1269. 観念は心の中の私秘的(private)な対象です。だから、観念説を徹底すると、むしろ人間は神と世界の絶対的な実在性に到達できないという懐疑的な結論に人は導かれます。ヒュームはこの方向を終点までたどった。デカルトの場合、そうならなかったのは、観念説に加えて、原因と結果に関するスコラ哲学由来の別種の〝公理〟を前提していたからでした。中世から受け継いだこの因果性の概念によって、デカルトは神の存在を証明に成功します。
1270. ヒュームは、デカルトとはまったく異なる現代的な因果性の概念を提出しました。アリストテレス以来のスコラ的な因果性の概念を全面的に否定し、現象の相関性と頻度によって因果性を定義したことは、哲学史上よく知られたヒュームの功績です。デカルトとヒュームを決定的に分けるのは、ひとつには、原因と結果についての哲学的な考え方の違いであり、もうひとつには、原因と結果の概念と密接不可分の実体(即ち絶対)についての考え方の違いだった。次回はこの辺りの問題を視野に入れて、デカルトの神の存在証明を検討することにします。
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