東京オリンピック聖火トーチを持ってフルマラソン✖️2を走る!
2022年11月と12月、立て続けに2つのフルマラソンに出場した。どちらも、出走者数が1万人を超える規模のちばアクアラインマラソンとNAHAマラソン。
フルマラソンに出る時はいつも、挑戦となるような何かしら新たな目標を決める。今までの挑戦は、自己ベストタイムを出すことが主だったが、今回は違う。
「東京オリンピックの聖火トーチを持って走り切ること」
2021年7月1日、地元の千葉県で、東京オリンピック聖火リレーに参加する予定だった。すでに3月下旬から福島県で始まっていた聖火リレーだが、コロナ禍の影響で、都道府県ごとに実施か中止かの判断が分かれていた。さらに、東京オリンピック開催そのものに対してさえも、世論は二分されていた。職場でも、安易に賛成反対を表明しづらい雰囲気があったのは確かだ。
他の都道府県で続々と中止表明がされる中、千葉県の熊谷知事からの中止発表をニュースで目にした時には「しょうがないよな」と自分を納得させつつも、「やはり走りたかった」というやりきれなさが残った。
「無観客」とあるが、完全な無ではない。報道関係者と聖火ランナー1人につき3人まで付き添いの入場が認められていた。千葉県の1日目に指定されていたランナーは、山武市の蓮沼海浜公園に集合し、設置されたステージ上で聖火をつなぎながら、一人一人ポーズを決めて写真を撮った。記念にはなったが、やはり、もやもやした気持ちは晴れなかった。
本来ならば、各ランナーの走行場所(スロット)は200m。「こんなものか」と思うほど短い距離を約2分かけてじっくり走る。
人目につきにくい夜に、トーチを掲げる位置まで片手を高く挙げながら、200mをゆっくり走るイメージトレーニングを始めていたが、水の泡となった。
75歳になる父親と、2022年11月のちばアクアラインマラソンを走ると決めた時、久々のフルマラソン出場で、何に挑戦するか決めかねていた。
今までなら自己ベストタイムに挑戦するのが常だったが、タイムに縛られて走ると、走ることそのものを楽しめないのがネックだ。仮装して走るのは経験済みだし、みんなもやっているし、新しい挑戦が何かないかと悶々と考えていた。
体力の衰えを自ら感じ「今年をマラソン挑戦の最後の年にする」と、年齢に抗いながらも、完走そのものを目標とする父を見て、「それはそれで悪くないな」とぼんやり思った。
そんなある日、ふっと何かがふってきたように思いついた。
「聖火トーチを持って走りたい」
これなら今までにないチャレンジだし、同時に1年前のやり残しを取り戻せる。しかも、200mどころではなく、十分すぎるほどの距離で。私にとっては一石二鳥のアイディアだった。
次に浮かんできた問いは「トーチを持つのをスタート、もしくはゴールだけにするか、42.195km持ち続けるか」だ。
コースの一部分だけにしたら、後悔が残ると思った。聖火トーチをダシに使っているだけのようで。やるならば、想いを込めて聖火トーチとともに走り抜きたい。どんな想いを込めるか考えて、平和への祈りと、個人的な想いの2つに決めた。
アイディアは最高だったが、久々のフルマラソン。コロナ禍になってからは、ろくに運動すらしていない。完走すら怪しいかもしれないのに、自ら負荷を1つ追加するというのは、不安要素をいたずらに増やしているだけのような気もした。誰かに言っておかないと、気持ちが揺らぐかもしれない。
翌日の昼休みの職場で、同じマラソン大会にエントリーしていた上司に、
「聖火トーチを持って走ります」
と宣言した。
「まさかフル全部じゃないよね?スタートだけ?ゴールだけ?」
「いや、最初から最後までです」
「さすがにきついでしょー?無理しないでゴールだけにしたら?それだけでもインパクトは十分だよ」
ありがたいアドバイスをいただいたが、
「持ってフルを完走します」と誓った。
全長71cm、重さ1.2kgの金色の聖火トーチを掲げて走ると、とにかく目立つ。慣れないと人目が気になって、まともに走れない。明るいうちに走れずに、夜中暗くなってから練習した。たまにすれ違う人にいぶかしげに見られた。そのうち恥ずかしさが出てきて、トーチの代わりに家にあった野球のバットに持ち替えて練習していたほどだ。
身内に、
「そんなので練習してたら、本番どうするの?」と注意された。
大会本番は、沿道応援の人たちやランナーたち数万人に見られる。練習ですれ違うたかだか数人の視線を気にしていたら、当日耐えられるはずがない。
注意を素直に受け止め、バットから聖火トーチに戻した。昼間の明るい時間帯にも練習するようにした。気持ちに踏ん切りをつけたら、次第に人目を気にせず、堂々と走れるようになってきた。
近所の川沿いを走っていた時、庭木の剪定をしていた庭師のおじさんが、遠くからこちらに視線を向けているのが見えた。横を通り過ぎるところで目が合ったので、軽く会釈してあいさつした。
「もしかして、それ聖火トーチ?」
「はい、そうです」
「うわー、初めて生で見たよ。すげー。いやー今日はめちゃくちゃラッキーだ、ありがとう!」
聖火トーチを持って走るだけで、見知らぬ人から感謝されて、はっとした。トーチが人をハッピーにしたのだ。家に大事にしまっておくだけでは、ほこりをかぶるだけ。マラソン大会は、トーチを大勢の人に見てもらえる絶好のチャンスでもあるんだ。
そんな出来事もあり、前向きな気持ちで当日を迎えた。
念のため事前にチェックした大会規則では、聖火トーチを持って出場することは問題ないはず。あくまでも、私個人の解釈ではあるが。それでも、スタートの号砲が鳴るまでは、何があるかわからない。係員に没収されまいか、ドキドキしながらその時を待った。少しだけ、目立たないようにトーチを持ちながら。
異様に長く感じたスタートまでの待機時間。開会セレモニーの放送も流れていたが、内容は全く入って来ない。とにかく無事にスタートだけさせてほしい。そして、スタートの号砲が、1年前に千葉県の聖火リレーの中止を宣言した、あの熊谷千葉県知事によって鳴らされた。
スタートしてしまえば、心配することはない。意気揚々とトーチを高く掲げた。
なるべく沿道応援が多い側を走るようにした。小学校の子どもたちが並んで応援してくれているところでは、トーチがよく見えるように特にゆっくり走った。
沿道応援の人たちからは、人より余計に大きな声援をもらった。追い抜いていくランナーたちからは、記念写真をリクエストされたり、「最後まで持っていくんですか?がんばってください!」と励まされたりして、実にいい気分だった。
それなりに気をつけたこともある。ランナーが多いところでは、トーチを横ではなく、胸の前で持つようにした。給水所では、他のランナーと交錯しないよう、歩道に上がってから水を飲むようにした。
一番多かったのは、「それ本物ですか?」という質問だった。聖火ランナーのユニフォームを着ていたが、よくできたコスプレだと思われたのだろう。
沿道応援でも、通り過ぎた後に「え?本物?」という声に、後ろを振り返り、「本物でーす!」と答えると、時間差で喜びの声が聞こえてくることが何度もあった。
ところどころで、多少のヤジもあった。
「トーチの火ぃ消えてるよ!」というヤジには
「心の中に灯してます!」と答えた。
「もう東京オリンピック終わってるぞー」
というヤジには、少しテンションが下がった。
反対に、知り合いの学校の先生がかけてくれた言葉「パリまでつないでくれー!」には、足取りが軽くなるのを感じた。東京オリンピックは終わっていることを、前向きに表現した言葉だった。さすがは励ましのプロである学校の先生だ。言葉の力って、やっぱりすごい。
練習不足がたたって、後半に足が止まりかけても、不思議と「聖火トーチのせい」とは1ミリも思わなかった。トーチの重さ1.2kgなんて吹っ飛ぶくらいの声援を、他のランナーより多く受け続けられるのだから。トーチの重さはむしろプラスにしかならない。トーチはまさに「相棒」そのものだった。
5時間20分08秒での完走は、ベストタイムからは程遠かった。それでも、聖火トーチに想いを込めて、沿道応援約21万人の中を走り切った達成感でいっぱいだった。
「どうせなら、もう一回トーチとフル走るか」
続いて出場したのが、12月のNAHAマラソン。実は、父親が「いつか出場してみたい」と常々言っていた大会だった。しそびれていた親孝行も兼ねて、一緒に申し込んでいたのだ。父親にとって沖縄は、若い頃に2度も単身で勤務を経験したことがある、思い入れの強い土地だった。
飛行機移動で、聖火トーチを無事に運ぶ手間はあるにはあったが、さほど気にならなかった。走る力になってくれること、人をハッピーにする力があることを考えたら、選択肢は一つしかない。専用の筒に入れ、それを丸ごと95リットルの登山バッグにすっぽり入れた。
関東とは平均気温が10度以上違う12月の沖縄。少し余裕を持って、大会2日前から沖縄に入り、体を慣らすつもりだった。しかし、大会前日まではあいにくの天気で、ジャケットを羽織らないと肌寒いほど。大した気温順応ができないまま当日を迎えた。
スタート地点では青空が広がり、良すぎる天気。しかし、スタート直後に急に雲が広がり、小雨が降り始めた。体の濡れよりも、聖火トーチの濡れの方が気になったが、そのうち沖縄らしいスコールに変わって、あきらめがついた。
スコールがあがると、すかっと晴れた。日差しが強く、最高気温26.1℃の夏日となったらしいが、体感的には30℃を越えるほどの暑さ。沿道応援の方々が至る所で配ってくれた氷が、暑さにやられかけた自分を救ってくれた。
土地柄だろうか。アクアラインマラソンであったようなヤジは、ほとんどなかった。沿道の人たちは聖火トーチに素直に驚き、喜んでくれた。たくさんのランナーに「写真撮ってもいいですか」と言われて、快く一緒に写った。その中には、米軍の女性ランナーもいた。
だが、NAHAマラソンでは楽しいことばかりではなかった。
アップダウンが小刻みにあるコースに加え、厳しい暑さのせいか、序盤から体が重かった。折り返し地点から北上するコース上では、背後から強い陽射しが照りつける。少しでも陽射しを避けようと、キャップのつばをこまめに太陽に向け直した。いつ熱中症になってもおかしくないと思った。救急車のサイレンの音も遠くから何度も聞こえた。後の公式発表で、完走率が67%だったことを知った。
ペースは徐々に落ち、ついに25㎞あたりで歩きそうになったが、制限時間を考えるとゴールできるかどうかのギリギリのライン。歩いたら完走は難しくなる。
そこからは、聖火トーチをみんなに喜んでもらうサービスは一旦休憩し、とにかく完走することに集中することにした。氷をこまめにもらい、熱中症に最大限注意する。「あ、聖火トーチだ!」「聖火ランナーがんばれ!」と声援を送られても、返事をするのも、笑顔を振りまくのも、一切やめた。
沿道近くを走って、間近に無視するのは心苦しいから、沿道からなるべく離れたコース取りをした。ランナーに声をかけられても「トーチどうぞ持ってみてください」なんてサービスはやめた。前半は一緒に写真撮ったり、トーチを持ってもらったりを50回はしたのではないかと思うが、完走モードに切り替えてからは、写真撮りたかったら勝手にどうぞ的な雰囲気を出して、塩対応に徹した。前半の自分と後半の自分とは、はたから見たらまるで別人だ。
あくまで目標は「聖火トーチを持って完走する」だから、それでいい。
完走できるかどうか瀬戸際の厳しい状況の中、こんなこともあった。
一緒に写真撮ってほしいとお願いしてきた一人のランナー。「うまく撮れないから、止まってもらっていいですか」と容赦なく言われた時は、俺の時間を1秒たりとも奪ってくれるな、と一瞬むっとした。結局断れず「いいですよ」と答えたのだが、聖火ランナーらしからぬ不遜な態度を出してしまったのは、自分の心の弱さだ。この場をお借りして、あのランナーに謝りたい。
沿道から一番遠くを走って、どんなに厳しい表情をしていても、変わらず沖縄の人たちは「聖火ランナー、ゴールまでがんばれ!」と声援を送り続けてくれた。
沖縄ならでは、しぼりたてのさとうきびジュースを配ってくれた人がいた。小さな子どもは黒糖キャンディを手渡してくれた。おかげで、足は止まらなかった。タイムは6時間9分12秒。制限時間まで残り5分ちょっと、ギリギリのゴールだった。
私自身のフルマラソンのタイムとしては、歴代で最も遅いタイム。言い換えれば、最も長い時間マラソンを楽しめた大会になった。もっと言い換えれば、それだけみんなに聖火トーチを見てもらえたのだ。
ちなみに一緒に出場した父親は、2回とも時間切れの途中リタイア。それでもどこか満足そうな表情に見えた。人によっては、完走できなくとも、その大会に出場したことだけで満足できるマラソンというのもあるのだ。
2大会合わせて84.39㎞、11時間29分20秒。元々の聖火リレーの走行予定距離の422倍。走行予定時間の345倍。
これだけの距離と時間、聖火トーチを持って走ったのは、今のところ、私だけのレア体験ではないかと思っている。
2023年1月14日。もともと聖火ランナーとして走行予定だった地元の市のニューイヤーマラソン10kmの部に参加する。聖火トーチを持ってのマラソン大会は、ここで一旦の走り納めとしたい。