私の朝の日課④

日課

  1. 4時起床(早起き)

  2. うがい

  3. 瞑想

  4. 朝日記

  5. 室内散歩

  6. 朝ごはん

  7. 掃除


今回は3.瞑想に関連した私の日課について話していきます

瞑想に関連した日課とは
般若心経を読むこと


去年の11月、最近字を書いていないな、なんだか字がへたくそすぎるなって思って写経をしてみることにしました
なんでもよかったのですが、この本が一番続けやすそうだなって思って手に取りました

1日1文、3回書いても5分ほど
これなら毎日書けそうと思っていましたが
11月24日に始めて結局最終日が1月11日
毎日書けば1か月で終わるところ、2か月弱かかりました
そのあともう一冊般若心経の写経の本を買って書きましたそれはもっと早く書き終えました
(その後漢字ばかりではなくひらがなも書きたいと思って歎異抄のボールペン練習帳を買いましたがそれは9日目あたりでストップしています)

なぜか般若心経の写経は続けられた
なぜなのかよくわかりません
毎日唱えていますが、いまだに一文一文の意味すら把握できていません
意味は毎度、本に書かれている訳を読んで「そうだった」と振り返ります

ただ一つだけ般若心経で私が心に残っているのは 空そして無

照見五蘊皆空
私たちの肉体も目や耳などの感覚器官も、頭で考えることもすべては「空」
菩薩はそれがわかったと
同じ状態でい続けることはなく、刻一刻と変化していく

有名な言葉に「諸行無常」があります
昔から好きな言葉です
すべては常に変化する

同じような毎日につまらなさを感じた時期がありました
なんで私は生まれてきたんだろう、なんで生きているんだろう
若いころに思いました
これは多くの人間が一度は考えるのではないでしょうか
でも諸行無常の意味を理解したとき、
同じような生活の中に小さな違いを見つけて昨日と違う自分の心の色とか感覚の違いとか、いつも見ていた景色が少しだけ違って見えたり、あれ?こんなところにこんなのあったかな?とか
昨日までとの少しの違いを発見してはなんだかうれしい気持ちになる自分がいて、その自分自身が楽しそうだなって思い始めて
ああ、生きているな、人生ちゃんと歩けているなって思いました

そしてこの般若心経で「空」を知り
さらに刻一刻の変化を楽しめるようになりました
変化するということは若い自分から年老いていく自分になり、いつかはこの世から去る人である、ということでもあります
変化を受け入れるということはいつかは死があるという事実も受け入れるということになります

必ず最後があるのだから今生きているうちはちゃんとしっかり一分一秒、一日一日を大切にして生きていきたい
今、自分はなにを大切にすべきだろうか、この選択は間違っていないだろうかと考えます
考えすぎて動けなくなると時間の無駄遣いになってしまうから勢いも必要です
がむしゃらに動くのではなく手すりにつかまってでもいいから着実に歩く、そんな風に昨日とは違う今日を大切に生きようと思っています

無眼界 乃至無意識界
感覚器官やその対象、そしてそれらで行っている認識すべてがない

「無」
般若心経の中で一番多く使われている漢字です
写経でも何回書くんだ?と思いながら書き続けました
でもこの字を何度も書いているうちに
そうだな、ないんだな、って気持ちになりました

死んでしまったら今持っている財産や物、自分の姿形もなくなります
自分の記憶する思い出も経験も知識もすべてです

普段の生活での話で言ったら
例えば仕事で失敗したり、上司などから叱られ自分の無能さに落ち込んだり、家族や友達と喧嘩してイライラしたり、恋人に振られて悲しい気持ちになったり・・・
今この瞬間、自分の心や頭にしみ込んでいる感情や思いはあります

でも1年後もそれはありますか?
ないですよね

私は人に相談することをしません
相談するというか悩みを打ち明けることをしません
父親が言っていたそうです
妹がよく職場の愚痴とかを言っていると
「あいつも話したいことがあるんじゃないかな、全然言ってこないけど」って心配していたそうです
久しぶりに会ったのに愚痴を言う必要はないし、話すならお互いの近況を話し合って楽しい気分でいたいから話さないってだけです

それに悩んでいるときってその悩みのことに縛られて頭ががんじがらめになっています
たとえ話を聞いてくれている相手がすごく良いアドバイスをくれたとしても素直に聞き入れる隙間がありません
なんなら「そんなこと言われなくてもわかってるんだけど」と喧嘩腰になって相手に不快な気持ちを与えてしまう可能性があります

冷静になって余裕ができて隙間ができたときに、あの時あの人こんなこと言ってくれていたなって思って反省して誤って仲直りしたとしても、不快な気分にさせたことには変わりない

それに結局どんな悩みでも問題も結局は自分が答えを出していることに気づいてからは本当に他人に話を聞いてもらうことはなくなりました

(仕事での疑問とか不安なことは周りに相談しますが、自分の内面のことについては、ということです)

そして落ち込んだ時の一番の解消ワードが先ほど出ていた言葉
「一年後に私はこのことを考えて悩んでいるだろうか、ないな」
そうすると一気に気持ちが軽くなっていきます
落ち込んでいる今この瞬間が無意味に感じてきます
考えなければならないことはあるかもしれないけれど、考えてもどうしようもないことはこれ以上は考えない

有名なアドラーという人が人の悩みのほとんどが人間関係からくるみたいなことを言っていました
確かに、振り返ってみれば人間関係がらみばかりです
仕事の失敗であっても失敗した事実よりその時言われた一言に傷ついたり、友達や恋人と喧嘩したり、恋人とうまくいかないもしくは別れを告げられたり、容姿や体型で悩む人だって結局は他人からよく見られたいとかなにかよくないことを言われたとか他人が絡む悩みが多いです

悩んでいるときはどうしてあの人はとか、あんな言い方しなくてもとか、相手のことを責めるような感情になって、さらに自分のどこが悪いんだろう、どうしたらいいんだろうと深い深いループに陥っていく

他人を変えることはできないのに悩む
無意味でしかない
自分のどこが悪いんだろうと自分では今わからないことを考える続ける
無意味でしかない

完璧な人間なんていない
良いところもあれば悪いところもある
他人からは不思議に思われたとしてもそれが長所であるならば無理に変える必要はないと思っています
変えたいと思うなら頑張ればいい
悩むなら変えなくていい


最近、ヒヤリハットの報告書に
「いちいち報告しているほど暇ではない。」とその時の状況をそのまま書いて提出したスタッフがいました

え?これ日記?
初めて目にした私は思いました
常識とかけ離れた文章がそのほかにもつづられている報告書でした
他スタッフも私同様呆れていました

書いたスタッフは日ごろから挨拶をしない、無断欠勤が多い、無断欠勤しても何もなかったかように出勤するなど普通ならクビになってもおかしくない行動をよくする人です
ですがこの業界人手不足なのでそんなんでも来てもらえるだけでいい、と本人が辞めたいと言うまで契約は続きます

でも誰の目も評価もなにも気にすることなくその時思ったことを報告書に書いたことは悪いことなんだろうか、と少し時間が経って思うようになりました
そういう考えに至らしめた環境、システムが悪いのではないか?と
確かに忙しい、忙しすぎます
よく大きな事故が起こらないなって思うほど忙しい
その中で起こったことを報告書に素直に書いただけのこと

これは間違っているのだろうか
正解ではないだろうけど、悪くない
私も麻痺してきているのでしょうか
でもそう思いました

何が言いたいかっていうと
その人は自分が間違ったことをして注意されているけど悩んだり落ち込んだりしていない、ということ
その人が特殊すぎるのかもしれませんが・・・

悩むのも自分の勝手だということです
悩みに悩んで自ら命を絶つ人がいます
本当にむごいです
悩みなんて般若心経からすると ない のに
ないものをあると思って悩んで悲しい選択をしてしまうなんてそんなに不幸なことはないです

そもそも何もないと思うと心が軽くなります
お金もない
地位や名声もない

人は何者にでもなれる、という言葉をよく耳にしますが

大丈夫、なろうとしなくてもあなたはあなた
何者かになろうとしなくていい
もうあなたはあなたなんだから
自信という強いものを保つ必要もない
まずはあなたはあなただっていう明確な事実を受け入れて、自分は今生きているということ、ちゃんと生きているということを褒めてあげればそれでいい
そして少しずつもう少し自分に色をつけて成長したいと思うなら自分がなりたい自分に近づけるように歩いていけばいい

もし目の前に悩み苦しんでいる人がいたら私はこう伝えます


今日は般若心経を毎日唱える日課についてでした
ありがとうございました

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