[本]「父ではありませんが 第三者として考える」を読んで
2024年最初のnote。武田砂鉄さんの「父ではありませんが 第三者として考える」を読んで。
今回はinstagramの読書記録のままです。長いです。
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生まれて初めて、「書き込みたい」と思った本だった。
主に子供を持つ持たない、父/母になるならない、女性のキャリアと結婚と出産などを通して、今ある「普通」や社会に「本当にそうか?」という疑問と様々な視点を与えてくれる一冊。
「第三者にも当事者性がある」(p.19)
主にこれがメイン。文中に
「『第三者が語る』という行為そのもの」と、「『第三者には言われたくない』という意見が存在すること」は切り離して考える必要がある、という長島有里枝さんの記述があったが、これはかなり重要な視点だと感じる。
かなり印象的だったのは「共感」に関して。
共感は同時に、排除をも生む、ということ。
共感は基本的に立場に依存している。
結婚した人がこれから結婚したいと思っている人に向けて「偉そうな」コメントをしていることに対し、「結婚したくらいでうるせぇな」と思ったという。
これに関して
「おそらくこの自分の意見は、圧倒的な共感を得られるはずだが、それは、自分が結婚しており、その上で嫌がっているからであって、もし自分が未婚だった場合、妬みや妬みのようなものが勝手に付着させられてしまうのではないか。」(p.174)と。
同じ意見でも、立場が違えば共感されない。発言や行為の奥にどんな意図があったにせよ、その者の立場や境遇から「勝手に」意味が付与されてしまう。
これは考えてみればおもしろい話だと感じた。
共感によって作られた結束は強い。いいねで繋がっているSNSはその典型で、好き、興味がある、泣ける、おもしろい、といった共感の上で成り立っている。
でも大事なのは、この先で。
「でも、そこから、『あなたにはわからない』がいくつも生まれていることを知ってほしいと、何度でも思う。」(p.178)
共感できる者同士だけで集まることは、共感できない者を排除することにも繋がる。「結婚している/していない」や「子供を持っている/持っていない」といった、境界線がはっきりしていて極端になりやすいことに関して、「あなたにはわからない」と言って排除してしまうことは容易い。だから「ない」人が「ある」人に対しコメントしたり意見したりすることに「怯えが存在」(p.180)するのだ。「あなたにはわからない」と言われてしまうから。
ここで考えなければならないのが、
「第三者にも、当事者性がある」
ということなのではないだろうか。
「あなたにはわからない」という、その分からない側にも当事者性があって、だからこそ見えるものがある。それを知っておくことがまず大切。そして共感できるものだけで集まるだけじゃなくて、その境界線をできるだけ取り払うことが必要なのかもなと考えた。
もう一つ。
「別に産まなくてもいいと言う考え方は、『産む』と言う積極性から考えれば消極的だが、産もうと思わないと言う判断もまた、その人にとっては積極的なものである」(p.166)
「積極的であること」を肯定する社会が何を隠しているのか?子育てや子供に関して、「積極的」の意味を再考しなければならない。どちらにも積極的な理由があって、そのどちらも隠されるべきではない。ある一方が積極的だからといって、その逆が消極的かどうかはわからない。決めつけたり、否定ないし肯定したりできる簡単な話ではないと感じた。
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終始
なるほどー、とか
確かに、とか
呟きたくなる感じ
何度も「濃淡がある」という表現が出てくる。
人の感じ方はそれぞれ違うのはもちろんだけど、同じ種類の、同じ感じ方をしていたとしてもその「大きさ」が同じとは限らない。それを「濃淡がある」と表現しているのがなんとも素敵。
「いわゆる普通の人生、いわゆる普通の家族設計というものがある。それをほぐしたい」(p.110)
とか
「『産む』への期待を溶かしたい」(p.112)とか。
「変える」といったものではなく「ほぐす」「溶かす」という表現が、どこか柔らかくてものすごく素敵で、好きだ。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
大屋千風