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私の、私だけの、私のための身体
留学から帰ってきてはやくも1カ月が経とうとしている。
先日、バイト先のある人に2カ月ぶりに会った。
留学から帰ってきてからというものの、なかなかシフトが被らなかった都合で2か月ほど月日が空いてしまったのだ。
開口一番、こう言われた。
「おかえり~太って帰ってきた?」
正直、面食らった。衝撃だった。
一瞬どう返せばわからなかった。
「そうかも~」と衝撃で真っ白になった頭で絞り出した時の笑顔は、ひきつっていたのかどうなのか。
その人と別れてから、私は自分の心にふつふつと「怒り」がうまれてくるのを感じた。
でも、どうして?
それを少し考えてみたので、ここに書いておきたいと思う。
言われた直後、最初に頭に浮かんだのは、「そういえばそうだったな、」という記憶の掘り起こしだった。
かつて、私はノースリーブや短パンに抵抗感があった。
なぜか?…恥ずかしいものだ、と思っていたからだ。
昔から、自分の身体があまり好きではなかった。
広い肩幅、太い二の腕、大きいお尻、太い足。
健康診断で「肥満」と言われたことは一度もない。その基準で言えば、私はほぼずっと「適正体重」といったところに当てはまってきた。
だけど少し前までは、「細い○○」に憧れていた。
だって誰かが痩せれば「細くなったね!」「ダイエット成功」といった肯定的な言葉で包み込まれ、逆に太れば「太くなった」「劣化」といった言葉で埋め尽くされるのだから。
これで「痩せたい」と思わない方がおかしいだろう。
大学生になってある程度、自分の身体と向き合い、受け入れ、大きく悩むことはなくなった。だけどどこか「痩せたいな~」という気持ちはモヤみたいに浮かんでいて、夜の甘いお菓子は罪悪感を生んだりしていた。だって夜の甘いお菓子は「太る」につながるから。
だけど少しずつ、変化が訪れた。
夏前、留学に行くか行かないか決めかねている頃から、海外のドラマやyoutubeを見ていた。
インターネットはすごい。現地に行かなくても、そこに生きる人に、その文化に触れることができる。
そういったメディアや大学、本などで「ボディポジティブ」や「健康(心・身体)」の問題に触れる機会が多くなり、ある疑問を抱く。
「美しい」って何だろう?と。
日本で「誉め言葉」として扱われる「顔が小さい」や「鼻が高い」といった言葉は海外では誉め言葉として意味をなさず、むしろネガティブな意味でとらえられてしまう、というのはもう有名な話かもしれないが、単純に私はそれらを通して、今ある「美しい」の基準は絶対ではないことをまず知ったのである。
そしてさらに疑問がわく。
7月になって気温が上がり始めたころ、長ズボンを手に取った私はふと思う。
「どうして私は、隠さなければならないと感じているのだろうか」と。
どうして太い二の腕は隠さないといけないんだろう?
どうして太い足は出しちゃいけないんだろう?
私の身体なのに????
思い返せば去年の夏、そしてもっと言えばそれ以前ずっと、私は夏でも長ズボンを履いていた。暑くても、汗で布がくっついて不快でも、足を出したくなくて、長ズボンを履いて歩いていた。
でもどうして隠さないといけないのか?
私の場合、その答えは、
「私の足は少し太くて、きれいじゃない。だから、隠さないといけない。」
というものだった。
では、なぜ「きれいじゃない」のか?太いときれいじゃないのか?
そして考える。唯一持っていた黒いデニムのショートパンツを手に取って、身に纏う。
鏡の前で自分を見つめる。なんだか、気分がよかった。
一度手に取った長ズボンをソファの上に放り投げたまま、私はバイトに向かった。
そして、抱える疑問に対する答えとしてのこの行動は、留学先で全肯定されることになる。
私は夏真っ盛りの時期に、ヨーロッパの海の近くの町で一ヵ月を過ごした。
これが何を意味するかと言えば、みんなが街を水着で歩いている、ということだ。リトルガールからグランマまで、色とりどりのビキニ姿で街を歩く。
水着でなくても、ほとんどの人がノースリーブのタンクトップに短いデニム、という出で立ち。夜はディナーへバーへと、美しいドレスを身に纏って光り輝く海辺の町を闊歩する。
堂々としていればいいのだ。
ただ、それだけ。単純なことだった。
隠すものなんて何もない。
…書いていて、あの感覚は言葉で表現するのが難しいなぁと感じている。
異文化に触れたときの、あの、言語化しがたい、あの、変化の感じ。
今まで持ってきた、到底変わるとは想像さえもできないような「当たり前」が、あっけなくくるりと変わってしまうような、あの感じ。
…もちろん、海外にも同様に「美しい」にまつわる基準や悩みは存在することを忘れてはならないのだけれど。
ただ、感じたのは。
堂々としていればいい。
これは私の身体で、それで美しい。
ということ。
私が抱いていた露出の多い服に対するあらゆる抵抗感はあっけなく忘れ去られた。
毎日ショートパンツをはいて、タンクトップで出かけて、もちろんビーチに行った帰りに水着のままで街を歩くビューティフルガールたちの仲間入りも果たした。
そして日本に帰ってきて、冒頭の一言。
こんなわけで、痩せてるのがいいとかあれやこれやを衝撃をもって思い出させられた私は、怒りを感じたのである。
さて。話がようやく戻ってきた。では、なぜ「怒り」を感じたのか?
私はむちむちの二の腕も、細いデニムが入らないお尻も、小さい身長も、全部好きで美しいのに、
ある一つの「美しい」の型に私を押し込めようとしたこと。
私はそれに対して怒っているのだった。
「太ってる」と言われたことに対して、ではなく、
私の身体を勝手に一つの物差しで測られたことに怒っているのだ。
これの違いは重要。それとこれとの間には、あまりに大きな深い溝がある。
余談だが、ひとつ。
夏が近づくと、電車の広告は脱毛関連で占拠される。
文面では多様性や自分らしくといった言葉を掲げておきながら、毛は認めないという矛盾に多くの人は気づかない。
…いや、気づいているのかもしれない。
気づいていながら、私たちはある特定の毛を「ムダ毛」と名前を付けて、膨大な時間とお金と手間をかけ、この世から消し去ろうとしているのかもしれない。
だってそれが社会の評価だから。
誰だって「汚い」と思われたくはないだろう。誰だって「美しい」と思われたいのだから。
与えられる美の基準と、そこに抱く違和感や疑問の狭間で、多くの人が葛藤しながら生きているのかもしれないな、と思う。
私も間違いなくそのうちの一人だ。
最近読んだ本で、毛の問題は「美しい」以外に「清潔/不潔」といった観点や性別など、様々な論点があり単純な話ではないことを知った。
自分の身体を肯定できるようになっても、傷ついたり、やっぱり痩せたほうが…なんて思う日もある。
ただ、そう考えて、一連のことを通して思うのは。
わがままになってもいいんじゃないか、とも思うのだ。
だって自分の身体だから。
私だけのために、存在するものなのだから。
色々、あるけれど。
…留学を終えてすぐ会ったある友人に
「○○ちゃん(私)はパキッとした色の服が似合うよね」と言われたことがあった。
単純に、嬉しかった。
一つの基準に無理くり当てはめて、自分の身体を嫌いになるよりも、
そういうあたたかな肯定を、私は大事に抱えていきたい。
私の身体は私のものであり、
私だけのものであり、
私だけのために存在する。
(余談)
....太って帰ってきたのか言われたその日の夜、私は前々からマクドナルドの月見バーガーを食べる予定をしていた。それが朝からの楽しみだったのだ。言われた直後、一瞬「やめようかな...」と思ったけれど、それでは言われた言葉を肯定することになってしまうのでは?と、私はポテトのサイズをわざわざLに変更して、思いっきり美味しく食べた。「そういうことじゃないよ、」とは分かっているが、こうして私はこの世の中に向けて小さく平和なテロを試み、勝利したのであった。
最後までお読みいただきありがとうございました。