[仮面浪人]もしもあのまま、受かっていたら
歴史にもしもの話は禁物ですが、あえて、私の歴史にもしもの話をしたいと思います。
もしもあのまま、現役時代に、早稲田に受かっていたら。
この話をしたいと思います。
高校時代の私は、「学歴」「学校名」「肩書」「(学校の)ブランド」等に固執していた人間でした。それらに人としての価値を見出し、それをものさしにして人を判断していた。「学歴=人間の価値」くらいに思っていたと思います。
何が私をそうさせていたのか、よくわかりません。
高校で聞く国公立大学至上主義的な話や学歴主義的な話も影響していたと思います。今思えば問題だとはっきり言えますが、当時はそれが正しいんだと思っていました。
ただ一つ、確実に大きな要素だろうと言えるのは、それらの「学歴」「学校名」といった言葉がもつ力というのを、高校時代に幾度となく感じる場面があったということ。
高校入学後、始まって1週間もたたないうちについていけなくなった私は、テストは赤点ぎりぎりもしくは赤点、部活も勉強が理由で退部。完全に落ちこぼれで、勉強しなゃしなきゃの毎日。自分がいかに頭が悪いかを毎日のように感じていました。
ですが当時の私は、そこまで落ち込んでいませんでした。
なぜなら、「学校の外に出れば」頭がいい人になれるからです。
特徴的な制服だった上、進学校としての高校の知名度も高かったために、他高の友人や近所の人などから「賢い」扱いを受けていました。高校の名前の上に胡坐をかき、自分は高校の中では馬鹿だけど、世間的には賢いんだと、まさに天狗になっていた。
…とは言っても、もちろん焦りは当然ありました。高校の中では勉強ができなくて苦しくて、こんなはずじゃなかったと悩んだ日もありました。でも、外に出ると全く違う扱いを受ける。本当はそうじゃないのに。
この経験から、「学校名」というものがどれだけの力を持つのかということを知りました。中学時代から、「勉強ができること」は私の自己肯定感の多くを占めていました。だから高校に入ってその要素が完全に崩れ落ちた私は、ある種そこにすがったんだと思います。「学校の外に出れば自分は勉強ができる人間なんだ」と考えることでしか、自分を肯定できる術がなかった。
「学校名」にすがって、そこに自己の価値を見出し、延いては他者の価値も見出し、固執するようになったのかもしれません。
そして現役で志望校に全落ちし、立命館に入学し、「立命館にいる自分」に価値を見出せず、でも浪人はできないと悩み、紆余曲折あって仮面浪人を決めることに。
私にとって、この「仮面浪人」の経験そのものが、高校時代に形成された学歴にまみれた私の価値観を大きく変えました。
結論から言うと、仮面浪人といういわばイレギュラーな道を選んだことで、「学校の当たり前=自分の当たり前」ではないこと、当たり前などどこにもないことに気づいたのです。
言い換えれば、「学校の当たり前=自分の当たり前」だと思っていたけれど、その当たり前から自分で外れたことで、学校の当たり前は必ずしも自分の当たり前ではないのだということに気づいた。
一週間のうち5日間も学校に通うのだから、学校が世界のすべてでした。SNSで色々な情報が入ってくる時代になったとはいえ、目の前にある自分の世界は学校の中にあります。その学校で当たり前だった「高校卒業→大学進学」という進路は、自分が進む当然の道であり、学校の学歴至上主義的な話も、それが当たり前で普通のことなんだと思っていました。
中学3年で始まった高校受験、高校入学と同時に始まった大学受験の話。人生の重要な進路を決める時、どの選択をするにもそこには偏差値という数字がありました。
つまり、何を選ぶにも「学歴が付きまとう世界」だった。中学を卒業したら。高校を卒業したら。先の話をするとき、その選択肢にはいつだって偏差値という数字がひっついていて、偏差値や学校名でしか、選んだその選択肢の価値が判断されていなかったように思います。そういう世界が普通なんだと思っていた。だってその世界しか知らなかった。それが当たり前。
ところが、秋学期を休学して大学生でなくなり、何の肩書も持たないひとりの「人間」に自分がなった時、その当たり前に存在していた「学歴が構成する世界」から一旦出ることになったんだろうと思うのです。
仮面浪人をするかしないか迷っていた時に読んだ、仮面浪人経験者のブログ、そもそも大学進学という道を選ばなかった人の話。海外の大学に進学した人の話も。学校が言う当たり前とは違う道を生きている人の存在を知って、必ずしも私の選ぶ道が学校の言う当たり前と一致するわけではないことに気づいたのです。
今までいた世界から出てほかの世界があることを知ってはじめて、今までいた世界を俯瞰したとき、いかに狭く限られた世界だったのかを知りました。
そしてもう一つ、私の価値観を大きく変えたものに、ドラマ「コウノドリ」があります。
産婦人科を舞台にしたこのドラマでは、当然ながら登場人物全ての学歴など一切関係なく、ひとりひとりが、ひとりの女性として働く人として母として妻として。父として夫として…など。それぞれがそれぞれの事情を抱えて生きていて、それぞれの人生を生きている。そこに人間としての上とか下とかはないんだ、とただただ見ていて感じました。
浪人を決めて家に閉じこもり、自分を見つめる機会が多くなっていたこの時にたまたま見たからこそ、感じられたことなんだろうと思っています。
学歴というのは単なる一側面であって、人ひとりのすべてではないということ。
人間に上下などそもそもないし、何かの基準で比べられるものでもないということ。
そんな当たり前のことが、高校時代の私は分かっていなかった。
だからもし。
もしあの時、あのまま、受かっていたら。
今の私は学歴にまみれた価値観で、勝手に人を判断して、誰かを見下して、たくさんの人を傷つけて、生きていたのかもしれない。
そう思ってみて、私には今ただ一つ、言えることがあります。
あの時落ちて、本当に良かった、と。
色々ありましたし、結局のところ経済的にも精神的にも、仮面浪人しなくていいならしない方がいいし、勧められるものではないのかなとは思います。
ただあの頃の私には、失敗すること、悩むこと、そして気づくことが必要だった。全落ちと仮面浪人は、私にそのきっかけを与えてくれたものでした。
長くなりました。最後まで読んでいただきありがとうございました。
自分でも書いてることがちゃんとつじつま合ってるのか分かりませんが。
ではまた。
大屋千風
…当たり前という言葉がゲシュタルト崩壊しそうです。