今はまだ、そういう時じゃない

大学が始まった。
もう3年目。もう人生の夏休みも折り返し地点を通り過ぎてしまった。

今日久々に授業を受けた。
英語読解の授業と、社会学の授業と、哲学に近いような授業。
第一回授業ということもあり、イントロダクション的な内容だったが、どれもこれも面白かった。久々に、良い学びを得たときに脳にじわっと広がるあの心地よい疲労感を感じた。

正直に申し上げて、大学2年だった去年はめちゃくちゃ休んでいた。
時間割をうまく組んで平日5日の内3日しか登校日がなかったにも関わらず、である。
最低限は行っていたからある程度単位は取れたけれど、手元に学びはあまり残せなかったように思う。かなり後悔しているが、色々重なってしまった一年でもあって、精神的にあれが限界だったのかもしれない、とも思う。

少し話がそれたが、今日久々に大学に行って、考えたことがあったので、書いておきたいと思う。

大学に、何人か、尊敬できる先生がいる。
社会学の先生、福祉学の先生、などなど。
導いてくれる人がいるというのは、本当に恵まれていることだと思う。自宅浪人の際、身をもって学んだことの一つだ。目指す場所に行くための道しるべを示してくれる人、迷ったときに手を差し伸べてくれる人がいるのは、歩み続けるときに支えになる。迷ってもいいや、と突き進む勇気も与えてくれる。
その師が尊敬できる人であればなおのことだ。

さて、中でも、私のゼミの先生の話をしたい。
めちゃくちゃすごい先生なのに、全くそんな感じがしない。
謙虚で、優しく、他人への想像力であふれている。
どうして微塵の傲慢さもにじみ出てこないのか、本当に不思議だ。
傲慢さを持て余す私は、先生みたいな人間にはなれないだろうと本気で思う。

今日、ゼミとは別でその先生が受け持つ英語の授業を受けた。
イギリスのインテリ層が購読するという高度な経済雑誌の記事を扱い、その読解を行う授業で、先生の専門領域でもある国際関係と英語とを同時に学べるようだった。

説明を聞いている時、ふと、先生の着ていたジャケットの小さなデザインが目に入った。

シンプルにあしらわれたそのデザインは、私の好きなブランドのものだった。ミニマルなデザインがかなり好きで、いつかほしいなと思っていたブランドだった。

洋服は値段が高く到底手が出ないのだが、メルカリなどの中古品であれば、長く使えるような財布やバッグは手が届かないでもない。
本物なのか偽物なのか分からないが、並行輸入品と書かれているものは新品であるにもかかわらず圧倒的に安価で手に入る。偽物でも、他人から見れば分からないだろう。

好きな芸能人が持っていたら同じものでも良く見えてしまうのと同じように、先生も持っているブランドなのだと知り、私の中でブランドに対して抱く「価値」が上がった。
メルカリを開いて、手が届く、かつ良さげな商品のページにいくつか、ハートをつけた。

…ブランドって、不思議だ。
最近、よく考える。
知っている人の中でのみ価値が共有される。誰かにとってはただのアルファベットの連なりが印刷されたTシャツに見えても、その連なりの意味を知っている人、連なりから金銭的価値などを想像できる人にとっては、ただのTシャツでなくなるのだ。
知らなければ何も思わないのに、知っているというだけで、そこに価値が生まれる。
価値が共有される社会ないし人のあいだでのみ、価値が構築される。

不思議である。

不思議だと思っている一方で、私もそれを構築している一人だということが、もっと不思議だ。
まぎれもなく、私もこの社会を構成している一人なのだということを自覚する。

最初、華奢な先生には少し大きめで、腕の部分の布が少し持て余されているように感じていた。だがそのブランドのものだと認識されたとたんに、私の中でそのジャケットに対する印象が変わったのだ。納得、とも言えるだろうか。
何に「納得」なのか?分からない。

それだけ、ブランドの持つ力、ブランドの持つ意味や価値観が私たちの思考に与える影響は強いのだということも改めて感じる。

家に帰る道中、私はメルカリでそのブランドのバッグを買おうかどうか考えていた。
かなり、買う方向に傾いていたように思う。

夜ご飯を食べ終えて、またメルカリのアプリを開いた。
だが、ふと、考えることがあった。

どうして私は、このバッグが欲しいのだろうか?と。

どうして手に入れたいのか。手に入れてどうしたいのか。
答えは、すぐに見つかった。
ステータスにしたいだけだ、と。

お金に余裕があるように見られたい、すごいのだと思われたい、他の大学生たちとは違うのだと思われたい。

過去にも、高いものを身につけたくなる時があった。大抵、そういう時は自信をなくした時だ。自信をなくしたけど、他人に評価されたい時。

私にとっての話だが、飾りたくなるのは、中身がないことを自覚している何よりの証拠だ。

ブランドのジャケットを着ている先生を見て、私がお金あるんだな、センスいいな、と思ったのと同じように、私も他者にそうみられたい、という、クソみたいな承認欲求と虚栄心。

そんなことをあれこれ考えて、ふと、机に目をやる。そこには、パソコン、教科書、英語のプリント、そして一冊の本。

鮮やかな赤が美しいその本は、大好きなジェーン・スーさんの「闘いの庭 咲く女 彼女がそこにいる理由」。
自分を信じて突き進み、自分の場所を自らの手で作り上げた女性たちの物語だ。

そして思う。私は何かを成し遂げただろうか、と。
辞書を使わなければ全く分からない英語、半分くらいしか理解できなかった哲学、学びを得なかった大学2年の1年間。

手の中にある、やるべきことをしてこなかった、という虚無感。

それだけの値段のするものを持つほどに、私は何かを手にしてきただろうか。

何かを手にした・やり遂げた人がブランドものを持つ価値があるのだ、と主張しているのではない。
持つ理由はさまざまである。身に着けるものは自由であるべきであり、その人が自信をもてるならどんな服だろうとその人は美しい。

だが今回の私の場合は、これには到底当てはまらない。持っても自信になんかならないことが分かっている。虚栄心を満たすための買い物だ。これほど空しいものはない。

そして、そうであるならば、学生であるこの最後の2年間は、やはり学ばねばならないと思ったのだ。自分が好きなそのブランドのものを持ってもいいんだと自分で思えるようになるくらい、人としてなりたい自分に近づき自信を持ちたい思ったのである。

今は、持つべき時期じゃない。今は、持つべき自分ではない。

文字にするとかなりきれいごとのように思える。結局、こうやって文章にして誰かに読んでもらうのも、承認されたいだけなのかもしれない。

社会が付与するその価値に見合うよう、自分を高めていく。
正直、ステータスとして持っているようにしか思えない時期もあったが、そういう理由で持っている、ないしブランドというものが人々にとってそういう位置づけ(自分を高められる目標といった役割)を担うものなら、それは素敵なことなのではないかと思う。

ブランドやらなんやら、いろいろ考えた日でした。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

大屋千風








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