木と市長と文化会館 または七つの偶然

映画は色々と漁るより、つい同じもの何度も観てしまう。そのわたしの心理には、寅さんの新作が公開されたといって映画館に観に行く人がそれが新作であるにもかかわらずいつもの美女に振られるお馴染みの寅さんを求めて観に行くように、知らぬふりをしてまたいつもの驚きと笑いを体験したい、そんな少し自己本位な動機が潜んでいるのかしれない。というより、それは元来歌舞伎といい、大衆が芸術に求めるところのものであった。迂路をへて、結局は馴染み深い感情に至るのである。予定調和だが、知らぬふりをして驚き笑う。それで映画館をでると皆顔を見合わせて、やっぱり寅さんはいいなあ〜となる。平和な時代だこと。ごくたまに寅さんが女に振られずに好かれてしまう回があると、寅さんと同じく観客は困惑してしまう。寅さんは、来られると引いてしまうのだ。観客は安心すると同時に今回の寅さんは、なんだか、かっこよかったなあ、となる。平和な時代だこと。
 それはさておいて。たとえば『秋刀魚の味』はそんな寅さんの情味を味わうように定期的に観たいし、『2001年宇宙の旅』は形容不能な複雑な匂いで何度も嗅ぎたくなるし、エリックロメールの『木と市長と文化会館』はフランス語ひいては口語のシャワーを浴びたい時にきまって観るのである。これらの映画は一年に一度はそんな気がなくとも観ている。それぞれに性質も異なるから、また観たくなる動機も違うかもしれない。模糊としているとはいえ動機があるところにわたしの映画のみかたは良くない。本に比べたら、全然冒険心はない。映画はわたしにはロキソニンとか頓服薬に近いのかもしれない。いや、整腸剤くらいか。
 ところで、わたしはこのロメールの映画を19歳のとき学校の図書館の地下にあるメディアライブリーで観て以来何度も観た。レスペクテュ〜、メディアテックのそれぞれのフランス語の俗悪な響きが耳に焼き付いている。それから時を経て社会人になった後また観たくなったから、TSUTAYAに借りに行ったが大抵置いていない。それで少し高かったけどDVDを買って宝物の一つにしていた。それなのに今やアマプラで観れるから、皆と共有できるのが嬉しいやら口惜しいやら。
 
 あらすじは田舎の村のなかにある柳の木が目立つ緑に覆われた空き地にメディアライブラリーや図書館、劇場を併設した文化会館を作ろうと計画する村の市長と、空き地の美しさと景観を守るためその計画に断固反対する村の小学校教師とその娘の長舌の語りを主軸におく。「言葉を慎重に選ぶが名言の少ない」市長と激しい批判者の教師、父譲りの批判精神を持ちながらも現実の計画と融和するための案を考える娘。父娘は文化とは何か?それは本来外から与えられるものか?何もないとか、何かある、という文化的二択の病を脱却するには?豊かさとは何か?美とはなにか?と永遠と言葉で語り続ける。その口から発せられる長舌が音楽を聴いているように実に心地よく、時に示唆に富むところではころりとその得意げな調子に乗せられて、ついノリノリになってしまう。示唆に富む内容以上にこの映画は口語の偉大さを、いにしえに言葉の最高位に君臨した、口語の偉大さを復権せんとするようだ。無論我々は字幕を読んでいるわけだが。

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