思い出

夏菜子さんは流行りの風邪を引いたのか、その日はずいぶん咳き込んでいた。狭い部屋に八人が卓を囲み大方のひとは彼女を心配しつつ、移されることへの若干の不安を秘めて黙し課題の本を読んでいた。その沈黙を堅物なる哲学徒の幸助君が「風邪が流行っているからマスクくらいしてほしい」と書物から視線を上げずに誹りの言葉をつぶやいて破った。夏菜子さんが謝る間もなく、即座に先生が幸助君を厳しくお叱りになった。「君は何を言っているんだ、風邪は誰でもひくんだ。マスクをするしないは各自の勝手でなんで君がそれを押し付けるんだ。きみは一体全体何を勉強しているんだ、一人の体調も気遣えずして、何が哲学なんだね」。それくらいにしてあげて、と思わず幸助君が可哀想になるくらい散々しぼられた。たしかに平素の机上の哲学馬鹿が矯正されていい気味でもあった。「その通りです、夏菜子さん、ごめんなさい、大丈夫ですか」「いえいえこちらこそ配慮が足りず」。わたしは日頃のいい加減な先生をこの時ばかりは見直して、立派に感じた。
 先生への私の共感、師弟ともに少しの正しさの追求に満足したその数日後先生もろとも私たちは地に落ちた、少なくとも菩薩道を離れてやはり餓鬼道を邁進するように思われた。その日わたしは教職員館の入り口でバレンタインのチョコレートをある同級生からもらった。意外のことにや、呆気にとられているところを、運悪く先生に見つかってにやにやと冷やかされた。そのあとの授業で先生は開口一番皆んなの前でわたしのチョコの件をばらした。冷やかされたわたしは恥ずかしくなって、先生のかわい君のもらったチョコをここで皆んなで食べてしまおう、という悪い提案にのってしまった。その頃のわたしは時折先生の露悪的な所になびいていたのだ。他の人はこの部屋の主人の提案を拒否出来ず、申し訳なさそうにチョコをつまんだ。夏菜子さんだけは頑なに食べることを断った。チョコの味はやけに苦く感じた。
 冗談に端を発するとは言え、一人の誠意を蔑ろにする行いへの後悔が数日間胸につかえのように残っていた。更に悪いことに、もらったチョコを得意げに開けて皆んなで笑いながら食った、とやや誇張されて学部内に話がもれ広がって本人の耳にもとどいた。彼女をいたわる声とわたしを非難する声がきかれた。それでわたしと先生はしばらくの間タガの外れた人間の烙印を押されることになった。我が身の招いた禍いというより、ただわたしが悪かったのだから仕方ない。
 こんなくだらない思い出をひいたのは、ひょうきん者や放蕩者が時折誰も気づかない正しさを発見することもあれば、やはり人より多くの迷惑をかけるのが常である、そんなことを言いたかったのである。
 


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