死は、生を輝かせるのか

死は生を輝かせる。数多の先達がそう言っています。死を意識することで、生きることの意味と使命に思いをめぐらし、その懊悩の積み重ねが自ら歩むべく道を照らしていく。そんなところでしょうか。

僕の両親は、二人とも認知症になりました。先に発症したのは母で、父は長年の介護に疲れ、後を追うように認知症になり、折からの心臓病を悪化させながら瞬く間に母を追い抜いて、死の淵に辿りつきました。

死の淵に立たされた父。その傍らで、記憶を失い続ける日常に疲れた母。彼女もまた死の淵に歩み寄ろうとしています。そんな環境下に置かれ、死について考えないわけにはいきません。

そして、自分の身体にもちょっとした異変が生じます。春とは思えない寒気に見舞われたGWの初日、僕は微熱のような気だるさと頭痛、右耳の奥が共鳴するような気持ち悪さに襲われ倒れてしまいました。

あくる日は、起き上がることができたのですが、耳の共鳴とその裏側に当たる右後頭部の痛みは止みません。実は、この頭痛は数年前から仕事が立て込むと度々起こる症状でした。継続的に痛みが続くわけではなく、気がつくと痛みは消えているので病院に行く機会を逸していました。

当時は40代の時につくって失敗した会社の立て直しに奮闘しており、年間で3日くらいしか休まない状態でした。2日徹夜してそのまま酒を飲みに行き、酩酊を楽しむ。などと不届きなことをやっていました。ハードワークのツケがついに回ってきたのかもしれません。

なかなか病院に行くタイミングがなかった折、GWに倒れたのは本当にいい機会でした。休み明け早速、事務所近くのクリニックに赴いたのです。そこでドクターからいくつかの可能性を示唆され、急遽大学病院の紹介状を書いていただきました。

その時、忍び寄るように近づく死を感じることができました。大学病院で検査を済ませ、引き続き通院することになりそうですが、原因はわかっていません。しかし、クリニックでシビアな仮説を示唆されてから大学病院に行くまでの1週間は、本当に死を身近に感じられた貴重な経験でした。

その時、僕は不安や恐怖より、生きる意欲のようなものが湧き上がりました。まだ、この世に生を受けた痕跡を何も残せていない。やりたいこと、野望、ビジョン、ほとんど実現していない。その現実に悔しさがこみ上げてくるばかりです。

もし、生かせてもらえるなら、後悔しないようにやりたいことは全てやろう。どんな人にとっても、未来は着実に減り続けている。今、できることを淡々とやる。そんなあたり前の気づきを与えてくれた今回の出来事に感謝しかない。

「死」とは、生まれ変わることなのかもしれません。同じ肉体で死という暗路を経て生まれ変われる僥倖。それを噛み締めながら明日を迎えようと思います。

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