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偽善者はここ一番のところで逃げる
ある日のこと、ある協会のトップに電話をかけて、その会員登録しているある会社経営者の蛮行(違法行為)について問い質したことがある。
筆者の目的は、警察沙汰にせず、裁判沙汰にならず、その協会にて事実関係を調査し、違法行為の確証が得られれば、警鐘を鳴らすというものであった。
ところが、その協会長は、同じ経験をしたことを語り出し、話は、協会に参加している企業の二代目、三代目を誹謗している。例えば、「あの息子はバカですよ。バカばっかり。あの息子も大馬鹿ですよ!」と、同じ協会員である会社の後継者たちを見下し、バカにするのである。(一番バカなのは貴方では?)
結局、違法行為についての是非を語ることもなく、他人事のように受け止めては、他社の後継者批判に徹する協会長。このような人物が、協会の会長として鎮座しているのだから、絶句となってしまうばかり。
本来ならば、同じ協会員として登録されている会社の経営陣による蛮行(違法行為)は、同協会としても責任問題になりかねず、会長自らの足元が揺らぐことを避けるために、話の腰を折り、逃げに転じたのだろうと。よって、改善の余地なしとなる。
これこそ、偽善者ぶっている人間の姑息なところが見事に露呈していることになるだけの話。このような協会運営の実態を眼前にして、熊本県における観光立県への理想論など、夢のまた夢のように思えてならない。
▼ChatGPT-4oによる感想
このエッセイは、一見すると「協会長への批判」を前面に打ち出した文章のようにも読めますが、実際には「偽善的な姿勢で責任逃れに終始する人間への強い失望と怒り」が主題になっていると感じます。以下にポイントを整理しながら、詳しく感想を述べます。
1. 問題提起の背景
エッセイの冒頭で示されているのは、
協会の会員登録をしているある会社の経営者が違法行為(蛮行)を行った。
筆者は警察や裁判に持ち込む前に、協会としての自主的な調査と適切な措置を求めようとした。
という流れです。本来であれば、協会が倫理面やコンプライアンスの観点から事実関係を調査し、会員企業の不正を正す(あるいは、注意喚起を行い再発防止に努める)ことが期待されます。しかしながら、実際には協会長がトピックを逸脱し、他の後継者をただ罵倒し始めるという展開になってしまう。ここが既に「問題の本質をすり替えている」兆候であり、筆者は非常に失望しているわけです。
2. 協会長の言動に見る「責任逃れ」の構図
協会長の反応には、次のような心理が透けて見えます。
同じ協会員の不祥事への「危機感の欠如」
通常、同じ協会員の不法行為が明るみに出れば、協会の社会的信用も傷つく可能性があるため、本来ならばトップとして責任ある姿勢を示すはずです。
ところが、協会長は話をすり替え、後継者への誹謗中傷に終始する。
自分の立場を守るための話題そらし
「あの息子はバカだ」「あいつらは大馬鹿だ」と他者を見下すことで会話の焦点を変え、肝心の「違法行為の追及」を避けている。
筆者はこれを「偽善」と見なしているわけです。道義的にも、リーダーとしても「逃げ腰の態度」であることは明らかでしょう。
筆者がエッセイの後半で述べているように、「偽善者ぶっている人間の姑息なところが見事に露呈している」というのは、ある意味、協会長が「本気で社会的責任を果たす気はない」ことを感じ取ったための辛辣な表現だと思われます。
3. 「偽善者ぶり」の本質と社会的影響
ここでいう「偽善者」というのは、表向きは「誠実そう」「正しいことをしている風」を装うものの、いざ自分の立場が危うくなりそうになると平気で問題をすり替え、責任を回避しようとする人間像を指しているように読めます。さらに、冒頭に書かれていたように「警察沙汰・裁判沙汰にしたくない」という筆者の思いを踏みにじるような協会長の姿は、やはりリーダーとしての倫理観を問わざるを得ません。
また、そのようなトップが鎮座している協会の「実態」が浮き彫りになると、たとえ立派な協会理念や目的があっても、外部からは「同じ穴のムジナなのではないか」と受けとられ、協会への信頼が下がる恐れがあるでしょう。筆者が「熊本県における観光立県への理想論など夢のまた夢」と評しているのは、こういった“トップの姿勢”が協会全体の活動や地域の発展にも深刻な悪影響を及ぼすと考えているからです。
4. 熊本県における観光立県との関連
本文の結びでは、「熊本県における観光立県への理想論など、夢のまた夢のように思えてならない」と述べられています。
観光立県の実現には、行政や業界団体、そして個々の企業など、多様なステークホルダーが一致団結して質の高いサービスを提供し、倫理観やコンプライアンスもしっかり維持していくことが不可欠です。
しかし、この協会長のように責任回避に奔るリーダーが幅を利かせ、実態があまりにもずさんなまま放置されているのであれば、当たり前に求められる「相互協力」や「企業倫理」は形骸化してしまう。
そうなると、地域としても信頼が得られず、観光客に対して胸を張って「健全な観光地です」とアピールしにくいのは想像に難くありません。
筆者は、観光振興だけを目指すのではなく、まずは業界内部の自己改革(コンプライアンス強化やモラル向上)を徹底しなければ、真の意味での「観光立県」は遠いと感じているのではないでしょうか。
5. 全体を通じた感想
告発と批判だけで終わらない「失望と警鐘」
本エッセイは、ただ相手を批判しているだけでなく、「こういう偽善的なリーダーがまかり通っている限り、健全な発展は難しい」という強い警鐘を鳴らしている文章とも言えます。
筆者の怒りだけでなく、心底から落胆している様子もありありと伝わってきます。
リーダーの姿勢は協会や地域全体を映す鏡
トップの振る舞いは、その組織全体の信用やイメージを左右します。
この協会長の態度は、自らの保身に走り、倫理観や責任感を欠いたものであり、まさに「偽善」に見られても仕方がないでしょう。
問題解決に向けた道のりの困難さ
筆者が指摘するように、この協会の体質には改善の余地が見当たらず、内部的に事なかれ主義が蔓延している可能性もあります。
そのような風土を大きく変革するのは容易ではありません。
ただし、このままでは観光立県や地域の魅力向上といった、大きな目標は望むべくもないと痛感させられます。
まとめ
「偽善者はここ一番で逃げる」というタイトルが示すように、外面だけ取り繕う人物ほどいざという時に責任を放棄し、話をすり替える姿を痛烈に批判しているのが本エッセイの要旨です。そして、その“偽善”が協会トップという「リーダー」の立場で露呈してしまうことが、地域や業界としての未来にとって大きな損失だ、と筆者は警鐘を鳴らしているのだと感じます。
エッセイ全体からは「倫理や責任感のないリーダーが存在する組織は、どんなに立派な目的を掲げても空回りになってしまう」という鋭い指摘と、そこに対する筆者の諦念と危機感が痛いほど伝わってきます。観光立県を標榜するならば、まずはリーダー層が背筋を伸ばし、同じ過ちを繰り返さないための具体的な行動を示すことこそが急務である――そんな強いメッセージが込められたエッセイと言えるでしょう。
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