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天罰が下った者たちと予備軍

 新年となり、10ヶ月が矢のように飛び去った感がある。

 今年6月25日を境に、ある企業で悪行三昧を繰り返してきた者たちがすべて退任したとの情報を得た。因果応報、自業自得といった言葉が相応しい人物たちであったのかと思わざるを得ない。

 この数年間、善意ある他者に濡れ衣を着せ、虚偽情報を撒き散らし、他者を犯人扱いしてきた者たちが、職を失う結果となったことは、まさに当然の流れだ。よって、悪事に手を染めた者には、必ず天罰が下るのである。

 一般的に、人は己の利益を最優先に考え、自分の立場が危うくなると、必死に火消しを行い、真実をねじ曲げてまでも保身に走るものである。特に、育ちが悪く、人間学を学んでこなかった無知な者たちは、その典型である。

 昨日、熊本県農業公園を訪れた際、すれ違った幼稚園の園児たちが先生に引率され、バラ園に集う観光客に元気いっぱい挨拶をしていた。純朴な幼児が将来悪行に手を染めるなど考え難いが、悲しいかな、一部の者は成長過程で証拠隠滅や責任転嫁に手を汚す大人になってしまうのだ。

 今年も残すところ僅か2ヶ月となった。筆者の周囲には非常にアグレッシブに行動する人々が多く、彼らから刺激を受けつつ日々を楽しむことができている。長きにわたり暗躍していた輩が退任したことで、筆者の環境にもすこぶる平穏が戻り、心地よい日々が続いている。

 一方で、アグレッシブに前進する者がいる反面、全く進展のない者も僅かながら存在する。非常に気になることであるが、彼らは苦言を耳にすることを拒むため、結局のところ、大人の世界の片隅で愚痴や言い訳をこぼしつつ停滞した人生を歩んでしまう。

 そうした者たちは、人生で空くじを引いているのだが、それに気づかないことが救いようのない事態を招いている。2年も3年も同じトラックを何周も、ただのんびりと歩いているだけで、改善の余地なしの病的な所業の根源がそこにあるのは明らかである。

 不誠実で不義理な性格がいつから備わったのかは知る由もないが、可能であれば、のんびりとした歩みをやめ、一気に前進すべきであろうと思うばかり。しかし、良かれと思いアドバイスするも、聞く耳を持たぬ者は、あいも変わらず、ぬるま湯に浸かった人生に留まることになる。

 やはり、人付き合いというものは、白黒はっきりした、胸筋開く人たちとの接点が、より良き人生を齎すのは間違いのない事実。己の失態、醜態を直視しない人物は、後戻りのできない、悔いばかりが残る人生を歩むに違いない。

 あれこれ考えている内に、素晴らしい人生を送るためには、幼い頃からの躾や教育が如何に重要であるかということを、再認識したのである。


▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイ「天罰が下った者たちと予備軍」は、人間関係における誠実さや倫理的な行動の重要性について、厳しい視点から述べられています。著者は、因果応報の原則を通じて、人が自らの行動に対して報いを受けることを暗示し、特に企業において悪行を重ねた者たちが最終的に退任した経緯を因果律に結びつけています。これは、一種の教訓として読者に「誠実であることの大切さ」を考えさせる構成となっています。

文章の中で、著者は子どもたちの無垢さと、その純粋な心が成長過程で歪んでしまう可能性を取り上げ、幼い頃からのしつけや教育がいかに重要かを再認識する流れへとつなげています。この部分では、人間の善悪や人格の形成に対する鋭い洞察が見受けられ、人間学の観点から、子どもの頃からの教育が人の将来を左右する可能性について示唆しています。

また、エッセイ後半では、誠実で積極的に行動する人々と、停滞し自己を省みない人々との対比を描写し、結果を伴わない停滞に対する批判が述べられています。特に、改善に向けて行動することなく日々を漫然と過ごす人々に対する著者の失望が顕著に表れています。苦言を拒むことで成長が止まると指摘し、責任を持ち、自らの過ちや失態を直視することが重要であると強調しています。

総じてこのエッセイは、「自らの行動に責任を持ち、誠実であることの重要性」と、「幼少期からのしつけや教育が人格形成に与える影響」を教訓的に説いているといえるでしょう。

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西田親生@D&L
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