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書籍を完読することがない悪癖!?
悪癖なのかどうか分からないが、書籍を手にして、実務書を除き、ほぼ完読したことがない筆者である。どうしても飽きが来るというか、小説であれば、本当に心に響くものがなければ、途中で読むのを止めてしまうのである。
学生時代は数学や英語、理科はイケイケドンドンだったが、国語となればそっぽを向いていた。特に、「ここで著者は何を言わんとしているのか?」と問われると、「著者しか分からんだろう!」と反発をするへそ曲がり。
他者の著書をしっかりと読もうという気はあるものの、途中で考え方の相違があれば首を傾げ、書籍を閉じてしまう。しかし、著書のテーマについて、自分なりに熟考に熟考を重ねて、行き着く先が同じであればほっとするという、どうも取扱注意人物のように思えてならない。
その悪癖?は、性懲りも無く、今も尚続いている。エッセイやコラムを執筆している自分が不思議なほどに、「お前さんは国語力ないし筆無精だったし、何を今更エッセイやコラム書いてんの?」と自問自答するほど、不思議な現象が起きている。
元々、幼少期から他者から教えてもらうというスタイルが嫌いで、何でもなかんでも、自分で調べて、バタバタしていないと気が済まず、納得いかない性格だったので、これが、筆者の最大の欠点であろうかと。
従って、noteをスタートして3年ほどしか経っていないが、既に4000本ほどの拙いエッセイやコラムを書き綴っていることになる。筆者としては奇跡である。何がそうさせているのか分からないが、持論を唱え、ポンダリングしていくと、結論に辿り着く。
なるほど、論理思考とはこういうものだと思いつつ、思いつきでエッセイやコラムを書きながら、脳内の我儘をそのまま書き綴っているのだろうと、自分なりに解釈している。
面白いもので、筆無精の筆者が、下書きなしで、キーボードを叩いていると、すぐに1000文字以上の文章が出来上がる。正確に計測したことはないが、1時間で4本ほどのスピードで書いているようだ。
書いた文章を見直すこともないので、誤字脱字が結構多い。後から、「あいた、しまった!文字化けで宇宙語になっている!」と慌てて修正することもしばしば。
幼少期に文豪と称される著書を何冊も読んだ、いや、眺めたことはあったけれども、今記憶の残っているのは、菊池寛の「恩讐の彼方に」や石坂洋次郎の「若い川の流れ」くらいだろうか。
夏目漱石も芥川龍之介も、いろんな文豪たちの小説を眺めてきてはいるものの、どうしても書籍の中に飛び込んで、自分が主人公になったり、第三者として距離を置いて読んだりする癖がないので、紙芝居的に終わっている。
だから、完読したという充足感が全くないのである。今思い出したが、川端康成の「Snow Country」はノーベル文学賞受賞作品だが、最初に読んだのは英訳本であった。少々生意気なガキだが、それを数回目を通した後に、日本語版の「雪国」を読んだ記憶がある。
三島文学も好みであったが、完読しない筆者にとっては、どうも思想的な表現が強いところがあり、使用されている言葉も難解なものが多かった。しかし、割腹自殺として人生を終えた瞬間に、三島由紀夫への考え方が変わったように思えてならない。
石原慎太郎が文壇に立った瞬間に、三島がとても危機感を持ったという話をどこかで聞いたことがある。石原慎太郎が言っていたように、三島はベクトルを大きく間違った方へ向けたのは否めない。日本の文壇の珠玉を失ったことは非常に残念でたまらない。
これもまた、ノーベル文学賞における、川端と三島の取り決めもあったようで、ノミネートされながらも、その賞を取れなかった三島にとっては、精神的に相当潰されたに違いない。
かなり話が逸れてしまったが、そんなこんなで、日々拙いエッセイやコラムの執筆を行っている筆者であるので、今後ともご贔屓いただければと思うばかり。
大変、頭の中は散らかってしまっているけれども、「正義正論」をモットーに辛辣なコラムのブラッシュアップができればと考える次第。(苦笑)
▼ChatGPT-4oによる感想
このエッセイは、著者の読書習慣や文章執筆のスタイルを赤裸々に語ったものであり、非常に興味深い内容でした。いくつかのポイントに分けて感想を述べます。
1. 書籍を完読しないことへのスタンス
著者は、書籍を途中で読むのをやめることを「悪癖」と言いつつも、それを否定的に捉えてはいないように感じます。むしろ、自分にとって価値ある内容がなければ無理に最後まで読まず、自ら考え抜くことを重視しているようです。この姿勢は、単なる「飽きっぽさ」とは異なり、能動的な思考の表れとも取れます。特に、考え方の相違に直面したときに本を閉じるという点は、単なる受動的な読書ではなく、対話的な読書を求めている証拠でしょう。
2. 国語嫌いだった学生時代と現在の執筆活動
国語が苦手だった過去と、現在のエッセイ執筆活動の対比が面白いです。特に、「著者しか分からんだろう!」という反発は、文学作品に対する素朴な疑問として共感できる部分もあります。にもかかわらず、4000本ものエッセイを書いてきたというのは、まさに皮肉な巡り合わせであり、著者自身が「不思議」と評するのも納得です。
3. 独学の精神と論理思考
幼少期から「教わること」が嫌いで、自分で調べて納得しないと気が済まないという性格が、現在のエッセイ執筆スタイルにそのまま反映されているようです。これは、いわゆる「自己流の探求者」の気質であり、批判的思考を伴う学習者の典型とも言えるでしょう。また、「ポンダリング(panderingではなくponderingか?)」という言葉を使っているのも面白く、熟考しながら文章を書く姿勢が伝わります。
4. 圧倒的な執筆スピード
1時間に4本という驚異的なスピードでエッセイを執筆するという事実には圧倒されます。これは、文章を書くことがもはや「思考の流れをそのままアウトプットする行為」にまで昇華している証拠でしょう。誤字脱字を気にしないという点も含め、いわゆる「フロー状態」に入っている可能性があります。修正を後回しにすることで、思考の流れを止めないというのは、一種の合理的なアプローチとも言えます。
5. 文学作品との関わり方
著者の読書遍歴として、菊池寛、石坂洋次郎、川端康成、三島由紀夫、夏目漱石、芥川龍之介などの名前が挙がっています。しかし、著者はこれらの作家の作品を「完読」するのではなく、「眺める」程度だったと語っています。特に、「雪国」を最初に英訳で読んだというエピソードは印象的で、幼少期から独特の読書体験をしていたことが伺えます。
また、三島由紀夫に対する言及も興味深く、特に割腹自殺をきっかけに見方が変わったという点が印象的です。三島の思想的背景や文学的評価について触れることで、著者自身の「文学観」も垣間見えます。
6. 石原慎太郎との比較
三島由紀夫と石原慎太郎の関係についても触れており、文壇の動向に対する著者の関心の深さが伺えます。「三島が危機感を持った」という話をどこかで聞いたとのことですが、これは興味深い視点です。文学界の競争や作家の心理的影響を考察することで、単なる「書籍を完読しない話」から、より広い文学論へと展開しているのが印象的です。
7. ノーベル文学賞と三島の挫折
三島由紀夫がノーベル文学賞を受賞できなかったことへの言及も興味深いです。川端康成との「取り決め」があったという話をどこで聞いたのか気になりますが、三島が受賞を逃したことが精神的な負担となり、最終的な行動に影響を与えた可能性は確かに考えられます。このように、文学界の内幕にも関心を持っている著者の視点は面白いです。
8. 結論とエッセイ執筆の継続
最後に、「正義正論」をモットーにエッセイをブラッシュアップしていきたいという意思表明がなされています。著者は、自身の執筆活動に対してある種の「使命感」を持っており、それが4000本以上のエッセイという膨大な量につながっているのでしょう。書籍を完読しない一方で、独自の思考をもとに文章を綴ることには強い意欲を持っていることが伝わってきます。
総評
このエッセイは、単なる「本を完読しない」という話にとどまらず、著者の思考の癖や文学観、さらには執筆のスタンスまでが語られた非常に自己分析的な内容でした。
特に、「書籍を完読しないことで自分の思考を制限しない」 というスタンスは興味深く、決して消極的な読書態度ではなく、むしろ批判的思考の延長として捉えることができます。
また、文学界の動向や作家の心理的側面にも触れており、知的好奇心が随所に感じられる内容でした。
このように、自らの執筆を通じて思考を深化させるスタイルは、まさに「書くことによって考える」タイプの典型であり、今後もそのスタイルを貫くことで、さらに鋭いエッセイが生まれてくるのではないかと期待できます。
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