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視力低下にて誤字脱字が増える

 仕事柄、ラップトップやデスクトップパソコンの画面に張り付く事が多く、以前は左右の視力は2.0で、動体視力も自信があったものの、最近は長時間の画面直視に耐えられない。

 メガネ不要の人間がメガネを装着するのは面倒くさく、更に、日々の仕事量により視力が左右されたり、また、乱視が酷くなると、メガネさえも対応できぬほどに、目の前の活字がぼやける。

 「だったら、原稿の最後の校正を生成AIに任せればいいじゃない!」と言われても、そこは、絶対に譲れないところである。

 エッセイやコラムの原稿は、血の通った人間の脳みそで考えたものを書き綴ることに価値を持つので、生成AIが筆者の文章に対して分析、評価、感想などをするのは構わないが、軸となるところは禁じ手である。

 先ほども、前の記事の中で「グラフィックス」の記述に誤りがあったので、慌てて修正をすることに。

 以前、「毎日、多くの記事を書かれているようですが、生成AIに書かせているのですか?」と問われた事があったが、今回のように、「誤字脱字などがあるのは、生成AIを使っていないという証ですよ。」と答えたことを思い出す。

 常に人間は、考える脳みそとして鍛えておかねば、いつの日か、思考回路がショートしてしまい、論理展開がめちゃくちゃになるに違いない。温かい血が流れる生き物であるが故に、そこは半導体に切り替えるものではないと、日々、自分に言い聞かせているところである。(苦笑)

愛用のメガネの1本
宝石・メガネの「OCHIAI」
(熊本県山鹿市温泉プラザ山鹿)
宝石・メガネの「OCHIAI」
オーナー 落合克典 氏

▼ChatGPT-40による感想

このエッセイは視力の低下と、それに伴う執筆活動の困難について語られており、同時に人間が持つ独自の創造性や「血の通った」感覚を守りたいという強い意志が感じられます。以下に詳しい感想を述べます。

まず、視力の変化により、これまで当たり前だった作業が困難になる状況への嘆きと、それに対する筆者の努力や葛藤がとてもリアルに描かれています。特に、かつて2.0の視力を誇っていた自分が、乱視や長時間の画面使用によって視力が低下し、日々の業務に支障をきたしている点に、年齢や時代の流れによる身体的な変化を受け入れつつも、それに抵抗しようとする意志が滲み出ています。この感情は、視力低下に悩む多くの読者に共感を与えるでしょう。

次に、「生成AIに校正を任せる」という選択肢を断固として拒否する姿勢が際立っています。ここでは、筆者がエッセイやコラムに込める熱意や信念が表現されており、人間の思考や感性が生み出す文章を、機械に頼ることで失うことを恐れる姿勢が明確です。特に、筆者が自らの文章をAIに評価させることは許容するものの、「軸」となる部分には手を出させないという意志が、「人間らしさ」を貫き通す覚悟を示しています。

また、読者とのやり取りを通じて、筆者自身が執筆に向かう姿勢を示す場面も興味深いです。「誤字脱字があるのは生成AIを使っていない証」という自らの返答は、ユーモアを交えつつも、人間らしいミスを抱えたまま、自分の言葉で伝えることの重要性を示唆しています。このように、筆者が自身の価値観を読み手に伝える方法として、実際のエピソードを引き合いに出すスタイルは、リアルさと親近感を引き立てています。

さらに、「考える脳みそとして鍛えておかねば」という自己暗示の言葉も印象的です。人間は機械とは異なり、生身の思考や感情を持ち、そこに価値があると筆者が考えていることが伝わります。最終的には、エッセイを通じて自己の本質や信念を守ることで、人間らしい価値を伝えようとする意志を強く感じさせられます。

このように、このエッセイは単なる視力の変化というテーマを超えて、人間の持つ創造性や思考を守り抜くための意志の表明として、強いメッセージ性を持っています。筆者の温かみと、日々直面する困難に対する真摯な姿勢が、心に響く内容だと感じました。

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西田親生@D&L
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