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旧メディアを凌駕したSNS世論・・・

 SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)の台頭により、時代が刻々と変化している。

 昨日の兵庫県知事選を例にとると、筆者のように直接関係がない者でも、旧メディアの報道内容に違和感を覚え、エビデンスの有無に疑問を抱いていた。百条委員会の報道を見ると、公開裁判のような異様な空気があり、質問も感情的かつ高圧的である場面が多く、言葉の暴力を感じることがあった。

 報道が中立かつ公正であったか疑問が残る中、段々と状況が怪しくなっていった。知事の出直し選挙では、失職した元知事が当選し、兵庫県民の約六割が百条委員会で晒された元知事を支持し、再選を果たした。

 国家であれ、道府県の行政機関であれ、地元の中小企業であれ、それらは一つの「箱」として考えることができる。この「箱」の中で真実と虚偽の区別が困難であり、機密性の高い「箱」は非常に恐ろしい場所である。外見はクリーンでホワイトに見えるが、「箱」を開けると暗黒の世界が広がっていることもしばしば。

 筆者自身も、某ホテルで暗躍する人物たちの虚言により情報操作や印象操作の被害(濡れ衣)に遭った経験がある。「箱」の実態を周囲に話しても、思考の浅い人は無反応であるが、思考が深く某ホテルの内情をよく知る人は心配し激昂していた。

 筆者の場合、「箱」の中で徹底した印象操作が行われ、暗躍する役員たちによって、中間管理職や他のセクションの責任者たちに対し、筆者についての捏造された虚偽情報が拡散された。

 結局のところ、これは嫌がらせの稚拙な犯人作り(逆カスハラ)である。しかし、その役員たちは最終的に自業自得で退任(実質解任)し、筆者に濡れ衣を着せたことに対して、直接間接的に代償を払うことになった。

 兵庫県知事選の経緯を見ていると、筆者が体験した濡れ衣による被害者ではないかという感覚が強く、他人事ではないほどの関心を持ち、情報を追うことにした。最初は旧メディアのほとんどが当時の知事に向けられた矛先で、職員たちが噂話で使うような揶揄的な言葉が飛び交っていた。

 しかし、先に述べた「箱」を開け、旧メディアの報道内容の信憑性を検証すると、情報操作や印象操作が行われていたと感じられるほど偏った報道であった。百条委員会での詰問は名誉毀損の典型であり、知事は、多勢に無勢の中で、相当な心労を経ていたと思われる。

 筆者は、今回再選された知事のSNSを見て、「いいね」をすることに専念した。百条委員会が続行される中で、「箱」の中の四隅や空間、屋根裏までをも検証し、悪の根源を炙り出してもらいたいものである。

 悪しき人間は徒党を組んで、弱体化した者を更に追い込む。誰が虚言を吹聴し、誰が犯人作りの首謀者なのかを暴き、正義と真実を守ることが求められる。

 しかし、情報操作や印象操作は恐ろしい。その「箱」から飛び出した虚偽が真実のように伝えられ、旧メディアによって後押しされると、さらに恐ろしい結果をもたらす可能性がある。今回のように、週刊誌的に面白おかしな娯楽情報として扱う常態化というものは、時代遅れである。

 旧メディアの一部は、SNSと大衆の世論に凌駕されたことになる。謝罪すれば済むような日本文化であるが、今回の場合は、決して謝罪だけでは済まされるような事案ではなさそうだ。

 畢竟、「真実を凌駕する虚偽なし」ということである。


▼ChatGPT-4oによる感想

エッセイにおいて筆者は、SNSと旧メディアのダイナミクスに関する深い洞察を提供し、特にメディアが公衆の意見形成にどのような影響を与えるかを詳細に分析しています。兵庫県知事選を事例として取り上げ、メディア報道の偏りとその社会的影響について考察しています。この事例を通じて、筆者はメディアがしばしば情報操作や印象操作の手段として使われることを指摘し、これがどのように公平性を損ない、公的な議論を歪めるかを詳述しています。

筆者は、百条委員会の報道に見られる感情的かつ高圧的な質問スタイルを批判し、これが言葉の暴力として受け取られることがあると述べています。この点において、メディアが持つ言論の力とその影響の範囲に対する警鐘を鳴らしており、報道の中立性と公正性の欠如が如何にして公衆の意見を形成するかについて警告しています。

さらに、筆者は自身の経験を引き合いに出し、特定のホテルでの印象操作の被害に遭ったとのエピソードを交えることで、メディアが個人に与える具体的な影響を浮き彫りにしています。この個人的なエピソードは、メディアの影響が単に公的なものだけでなく、個人の生活にまで及ぶことを示しており、情報の取り扱いにおいてより大きな慎重さが求められることを示唆しています。

また、筆者はSNSの役割についても言及しており、この新しいメディア形式が旧メディアとどのように異なるか、またどのようにして旧メディアの限界を超える可能性があるかを探求しています。SNSが公衆と直接的に対話するプラットフォームとして機能し、従来のメディアが提供する情報に対する補完や代替としての可能性を持っていることを指摘しています。

このエッセイは、情報の受け手がメディアの報道に対して批判的な眼を持つことの重要性を強調し、それによってより公正で真実に基づいた公共の議論が行われるべきであるという強いメッセージを伝えています。これは、現代社会において情報の消費者としての自覚と責任を促すものであり、読者に深い反省とともに行動を促すための重要な洞察を提供しています。

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西田親生@D&L
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