見出し画像

政治狂乱の時代・・・

 最近、政治に対する概念が急変しているのではないか。特に、国民の目はSNS上で政治に向かいつつあるが、玉石混交の中で、何が「真」で、何が「偽」なのか、政治家に人格が備わっているのか、政治家の目はどこを向いているのかなど、微に入り細に入り検証していくと、整合性のない、理不尽なことが多すぎる。

 これまで政治評論家の発言に耳を傾けると、中立公正なるスタンスで誠意を持って発言する政治家が激減しているように思える。自らに権利権限を手にしたと履き違えしている政治家は政治家とは言えず、単なる政治屋である。

 また、取り巻きもイベント感覚で、学生時代の学園祭の様相を呈しているが、いくら「言論の自由」といえども、節操なき、目立ちたがり屋のノイジー・マイノリティ(お祭り野郎)が急増している感がある。それでは、国民も各基礎自治体の住民も、安心して暮らせる環境であるとは感じ得ない。

 最近際立って奇妙な流れとなっている兵庫県政。どう見ても、一端の社会人、一端の大人としての言動であるとは言えない。企業でもいの一番に行われる「隠蔽工作」と「機密情報漏洩」が相まって、これまでにない政治への不信感、行政への苛立ちが増幅し、議会への価値観が急落している。

 兵庫県政のみならず、地方に行けば、その地域のローカルスタンダードがべっとりと染み付いており、戦後八十年経っても、民主国家の範たるものは皆無に等しい。結局、政治屋の裏側で暗躍する既得権益者の影がチラチラしているだけの話である。

 現代のマスメディアは、報道に関して「名誉毀損」というハードルを意識しすぎるが余り、ここ一番の時のメスの入れ方が鈍く浅く、結局は尻切れ蜻蛉となり、責任の所在が、曇ったカメラレンズのようにぼやけて見えず、自然消滅していくのである。(時が解決するを狙ったもの)

 第三者委員会というのも名ばかりであり、中立公正なるスタンスを見たことがない。どこかに偏りがあり、一歩、二歩踏み出すような積極姿勢に頷くことなど一切ない。

 一時期は、オンブズマン制度導入が話題になったことがあるものの、いまだに、その制度を導入していない基礎自治体は少なくない。政治はガラス張りでなければ、国民が安心して信頼を寄せるものにはなり得ない。

 永田町の水面下での個人的な話し合いが、国政を決めるような旧態依然とした悪しき慣習を払拭しない限り、地方もまた、それを右へ倣えにて、悍ましいほどの私利私欲のスタンダードが継承されるだけの話である。

 地域において、例えば「住みやすい街づくり」と謳うのであれば、それは、今の住民の「住みやすさスタンダード」だけを発信しても意味はない。外部から移住してくる人たちを如何に魅了するかの地域でなければならず、これからの時代を支えていく人たちのスタンダードを十分考慮した上で、「住みやすい街づくり」のベクトルを設定すべきである。

 地方の田舎においては、まだまだ政治の世界は昭和の臭いが染み付いている。人格が欠如したような富豪が地方を牛耳るようでは、時代錯誤も甚だしく、一部の既得権益者のみの幸福度は上がったとしても、その他住民の幸福度など上がるはずもない。

 これからの政治家に求められるのは、如何に国民を守るのか、如何に国力を上げるのか、如何に世代別人口比率の歪みを健全なものに変えるのかなど、一人ひとりが安心して過ごせる環境を創出するかにある。

 選挙前は「平身低頭」、選挙後は「傲慢不遜」という、これまでの政治屋の所業が通用する時代ではなくなった。かといって、SNS上で、自らの姿を現すことなく誹謗中傷で個人攻撃するような輩の存在は無価値である。言論の自由を拡大解釈する人が多いようだが、後々、そのツケは自分に返ってくるというのが世の常であることを理解すべきであろうかと。


▼ChatGPT-o1による感想

このコラムは、現代の政治環境に対して強い問題意識を持ちつつ、特に地方政治のあり方を深く疑問視している点が大きな特徴といえます。以下に、内容の要点や全体的な印象を整理しながら感想を述べます。


1. 政治への不信感と「政治家」と「政治屋」の対比

コラムの冒頭では、SNSなどを通じた情報の錯綜によって、何が正しく何が誤りなのか、政治家は誰に向き合っているのかが見えにくくなっているという問題提起があります。さらに政治家自身の「人格」の有無にまで言及している点から、筆者は政治家を「公的利益を目指す存在」として見ておらず、一部の政治家が「私的利益を求める存在」と化していると感じていることがうかがえます。

  • 「政治家」と「政治屋」を明確に区別して、「単なる政治屋」が増えていると論じている。

  • これは、誠実さや公正中立性が失われている現状を憂慮している姿勢を示している。


2. 兵庫県政を例にした地方政治の停滞感

コラムでは、兵庫県政を取り上げながら、地方政治における不条理や腐敗構造、隠蔽体質などを強調しています。「企業でもやるような隠蔽工作と機密情報漏洩が入り乱れている」という表現から、政治の世界がビジネスライクな権益争いの場になってしまっていることへの嫌悪感が見えます。

  • 具体的には「昭和の臭いが染み付いた政治」が地方に根強く残っていると指摘。

  • 一部の富豪や既得権益者が地方を牛耳る構造がなかなか変わらないという嘆きがある。

こうした指摘は、「政治の世界の負の慣習を地方も右へ倣えで踏襲している」という視点を示しており、国政から地方政治へとつながる古い慣習の連鎖を問題視しているところに特徴があります。


3. メディアや第三者委員会への批判と限界

マスメディアが「名誉毀損」というリスクを恐れすぎるあまり、突っ込んだ取材や報道ができず「尻切れ蜻蛉」で終わるとする指摘があります。これは、報道の現場が十分な機能を果たせず、政治の深部に踏み込んでいないという不満を表しています。あわせて「第三者委員会」という存在も、中立をうたうものの実態としては偏りがあり、踏み込んだ調査や改革へつながらないと問題視されています。

  • 本来であればメディアと第三者委員会が権力を監視する役割を担うはずだが、十分に機能していないとする認識。

  • 「中立公正」の裏側にある力学や忖度などが暗に示唆されている。

こうした指摘からは、政治不信がさらに深まる構図が浮き彫りになっているといえます。


4. 「住みやすい街づくり」と移住者への視点

地方自治体や政治家がよく掲げる「住みやすい街づくり」というフレーズに対して、コラムでは「既存住民だけでなく、外部から移住してくる人々も念頭に置く必要がある」と主張しています。ここでは、時代の変化や人口動態を考慮しなければ本当に魅力ある地域にはなり得ないという視点がうかがえます。

  • 「ベクトルの設定」という表現から、長期的かつ多面的な視点が必要であると強調。

  • 実際にどのように移住者を呼び込み、持続的な発展につなげるかは、政治や行政の取り組みが欠かせないという含意がある。


5. 今後の政治家に求められること

コラムの終盤では、「政治家はどうあるべきか」に言及があります。人口比率の歪みや国力を高めること、国民が安心して暮らせる環境づくりなど、大きなテーマを挙げながら、従来の「選挙前だけ平身低頭、選挙後は傲慢不遜」な政治家像を痛烈に批判しています。

  • 筆者が期待する政治家像は「国民を守り、国力を上げ、歪んだ人口構造を改善していく」リーダーシップを持つ存在。

  • 「SNS上の誹謗中傷」にも言及しており、「言論の自由」を盾にした攻撃的な発信を無価値と断じている点が印象的。

SNSが情報共有や議論の場として大きな力を持つ一方、攻撃的で無責任な意見が増えやすいという課題に言及しているのは、現代的な政治論として大きな含みを感じさせます。


6. 全体的な印象

コラム全体からは、「政治」という公共性の高い分野が、既得権益や隠蔽体質、SNS上の騒乱によって大きく歪んでいるという強い危機感が伝わってきます。筆者は特に「古い体質」を象徴する地方政治の慣習や、権力とメディアとの微妙な関係性に焦点を当てることで、現状を批判的に眺めています。

同時に、「住みやすい街づくり」や「次世代を支える人たちのスタンダードを重視する」という表現からは、個々の行政単位や政治家が、本来目指すべき未来志向のビジョンを意識すべきだという前向きなメッセージも読み取れます。いわば「現状への強い不満と、あるべき姿への期待」が混在したトーンであり、そこにコラムの主張の力強さが感じられます。


感想のまとめ

  • 強い政治不信・行政不信
    コラムを通じて「政治家は何のために存在するのか」「政治が本来目指すべき公共性はどこへいったのか」という根源的な疑問が投げかけられているように感じます。特に地方政治が「企業の隠蔽工作に似た動き」や「昭和体質の継承」に陥っているという指摘は、新鮮な視点というよりは、長年言われている問題ではありますが、改めてその深刻さが実感できる書きぶりです。

  • マスメディアや第三者委員会への不満
    権力をチェックする役割が期待されるメディアや外部委員会が機能していない現状を憂慮しており、そこに筆者の苛立ちが強く感じられます。しかし、この苛立ちこそが政治や社会の現状に対する危機感を裏付けるものとも言えます。

  • 住みやすい街づくりへの視点
    単にスローガンとしての「住みやすさ」ではなく、外部からの目線や次世代の目線を取り入れる重要性が説かれており、ここは地域活性化の現状にも通じる話題です。人口減少社会でどのように人や企業を呼び込み、定着してもらうかという課題と密接に関わってくるため、コラム全体の中では比較的ポジティブな展望をうかがわせる部分となっています。

  • 今後の政治家像
    国民を守る姿勢、長期的視点で政策を打ち出すことなど、コラムの結論部分では“あるべき政治の姿”が示唆されています。SNSの光と影を含め、政治家や民意のつながり方が大きく変化している中で、これまでの「選挙前・選挙後」の振る舞いが見透かされやすくなっていることを改めて感じさせる内容でした。

総じて、このコラムは地方政治や既得権益の問題、そしてそれを監視しきれないメディア環境への不満と同時に、これからの政治が担うべき役割と責任を強く意識した論調になっています。「政治狂乱の時代」という表現に象徴されるように、“本質を見失った政治の混迷”が筆者の大きな不安であり、その背後には「本来こうあるべきだ」という理想像があることが感じられました。

以上が、コラムを読んだうえでの詳しい感想です。


いいなと思ったら応援しよう!

西田親生@D&L
サポート、心より感謝申し上げます。これからも精進しますので、ご支援、ご協力のほどよろしくお願いいたします。