謗る言葉 vs 褒める言葉
小学校時代の心無い担任が発した、「謗る言葉」や「差別用語」。昨日のようにはっきりと覚えているところが不思議なくらいだ。今だからこそ苦笑いで済ませるが、子供心に相当傷付いたことは否定できない。
日頃から思い出すことはないが、いつまでも消し去るすることができない記憶の箱の中にへばりついている、ヘドロのようなものである。
小学校の或る先生が発した「謗る言葉」は、「三年苔」、「従兄弟は素直で利口だが、君は捻くれ者だ」、「子供らしくない発明品だ」のようなものであった。
一方では、他の先生たちの「褒める言葉」は、「1年生から6年生までの国語の教科書を渡すから、夏休みに全部読んでね」、「絵画コンクールに出す作品は皆入賞してるよ」、「音楽のセンスが良いから器楽部に入ってくれないか」、「鼓笛隊の指揮者を受けてくれるかい」などを想い出す。
当時、「謗る言葉」と「褒める言葉」の繰り返される中、筆者の子供心は揺れ動いていた。
中学校へ入ると、先生たちから「謗る言葉」を聞くことはなく、恥ずかしいほどに、「褒める言葉」ばかりをもらった。例えば、「数学の解答が美しい」、「技術の時間に君が作った書籍棚を譲ってくれないか」、「歴史の漫画を壁に貼りたいので、PTA授業参観日前まで10枚ほど描いてくれないか」などの言葉だった。
一番身近で頼り甲斐のある学校の先生から、「謗る言葉」で責められたり、「褒める言葉」で癒されたりで忙しかったが、筆者が幸い鈍感であったために、精神的に闇の中で塞ぐことはなかった。
子供の世界でも大人の世界でも、昔から低民度の「いじめ」は性懲りも無く続いている。特に最近は、陰湿な「いじめ」や「嫌がらせ」が急増しているようで、子供たちや社会人であっても被害に逢っている人も多い。よって、それら弱者を見ていると、居た堪れなくなってしまう。
社員教育の一環である「意識改革」においてもまた同様に、「謗る言葉」は不要である。「謗る言葉」は、社員のモチベーションを下げるだけであり、「意識改革」は不発に終わる可能性が非常に高くなる。
よって、一人の社員の1つの失敗を「謗る言葉」で、その社員の能力を全面否定するのではなく、1の成功を「褒める言葉」によって社員に夢と希望を与えることが、「意識改革」を加速させることに繋がりはしないか。