芸術文化は必要不可欠~共体験とアイデンティティの融解~
芸術文化は必要不可欠である。
ドイツの文化相がコロナ禍にいち早く、「生命維持に必要不可欠」と述べたことが話題となりました。
私はこの、必要不可欠だということに強い信念があります。
そして、ありとあらゆる人が、ありとあらゆる形で生きる姿を濃縮し希釈し具現化したものが、芸術文化だと思っています。
だから、芸術家というものは消えない、芸術文化は消えてなくならないと思っています。
一方で今回の新型コロナウイルスの影響で、「炭鉱のカナリア(*1)」となった芸術文化が活動を制限され、厳しい状況になったのが事実です。そうした活動・人々を守るため、様々な活動が立ち上がりました。
私自身も、フリーの芸術文化関係者を守るための基金「Arts United Fund」を5月1日立ち上げました。現状を把握するためのアンケート(*2)で受け取った声一つ一つに応える気持ちで、自らの出資と、資金集めを実施。最終的に約1,800万円の資金が集まりました。こちらは現在、応募期間なので、対象の方はぜひご応募いただければありがたく思います。https://www.info.public.or.jp/auf
さて、改めてなぜ芸術文化は必要不可欠なのか。様々な理由があると思いますが、私の思う2つの理由を述べたいと思います。
一つは、現在の世界のアーカイブとして。今の世界を切り取って残していくという意味において、芸術が大きな役割を担うと考えます。美術、舞台芸術、音楽にしてもまさに、今だからこそ紡いでいけるものが未来につながり、それこそが、未来から見た現在の解釈を捻じ曲げない一つの形だと考えています。そして私たちも、過去の作品を、その時の「今」として、まざまざと感じることができているのだと思います。
「今」を圧倒的に突き付け、「今」を最も「生」に近い形で伝え、感じ、考える時間をもたらすことができるのが、芸術なのだと思います。今を捻じ曲げずに伝え、そこから未来につなげていくため。そのために、必要なのです。
もう一つは、共体験をもたらすことができるという点です。ものや人との区分が融解して、共体験を得られる時間として、芸術文化の体験は象徴的であり、その点において必要不可欠だと考えています。今日は特に、こちらに焦点を当てて、考えていきたいと思います。
例えば私は今、ベルリンフィル×カラヤンのベートーヴェンの交響曲第9番をステレオで聴いています。コロナの前、最後に行ったコンサートが奇しくも12月の「第九」だったのですが、その「ライブ」の場では、オーケストラ、演奏家と観客との共体験が確かにありました。そのライブ感は今、私に投影されています。
それは、音が空間に満ちて、他人やものとの区別が融解するような感覚です。物理的に耳で聴いているというよりも、全身が音と触れ合い、そこにいる人は、互いに何の区別もないという感覚になります。
これはただの熱狂とも違っていると思います。誰かの人生を、誰かと共に過ごしているような、時空を超えた旅をし、体験を重ねているような、そんな感覚です。
音楽だけではなく、演劇鑑賞でも、無音のダンスパフォーマンスでも、美術館で絵と向き合う時でも、その感覚は同じように訪れます。「ライブ」で、「舞台上」で、「美術館という限られた空間内」で、作家や演奏家を含めて共体験する人々、あるいは共体験した人々がいる一定の時間は、多様な人との一種の”同一化”、各人のアイデンティティの融解をもたらすと思うのです。
たとえ感じ方が異なっていても、圧倒的な個を突き付ける、その芸術によって生み出される大きな塊的な何か、抽象的な何かによって、多様な観客ごと、鑑賞者ごと、すっぽりと包まれているようなイメージです。
この体験が、人類にとって必要不可欠である、と言いたい。それはすべての人が、生まれた場所や時代を超えて、区別できない、区別する必要がない存在であるということを、圧倒的な体験をとおして突き付けてくれるからです。
そうすることで、人は、まったく種類の違う草木や花々が同じところで生き、咲いているように、生きることができると思うのです。
以前、「包摂を知ることと、包摂をすることは圧倒的に違う」という話を聞いたことがあります。そのとおりだと思います。「みんな違っているけれど、みんな同じである」ということを、単純に教科書的に伝えるのではなく、体験としてもたらすことが、芸術文化の大きな力なのです。
私たちは違う国に生まれ、違う価値観を持った異なる家庭に生まれ、違う体験を積み重ねて生きています。そして社会が作り上げられている。
人種というのは、科学的根拠がなく、作り出されたもの(*3)なのかもしれないけれど、異なる人種として生きていると思っている人は多い。今もアメリカで、大きな運動が起きています。人はそれぞれ、ある部分では他の人に比べて「特権的」であり、別の部分では他に比べて「劣っている」と感じて生きている。排他的であったり、攻撃的であったりすることさえあるでしょう。
そうした社会において、それぞれが豊かに生きるためにどうしたらよいのか。マクロでは政治的にどのような制度があるべきか、政策がどうあるべきかなどの議論が必要ですが、ミクロでは、「一人一人は違うが、同じである」ということを、それぞれが知り、体験し、行動するということが重要だと思うのです。
マクロがミクロに、ミクロがマクロに影響することはどちらもあると思いますが、現代は個人の力が強くなっているからこそ、個人の変容が社会の変容へつながる潮流は強いと考えます。
各人のアイデンティティの融解という共体験をもたらす芸術文化は、分断しがちで、社会的つながりが希薄になっている現代にとって必要不可欠です。「誰かの生」「個」というものが突き付けられながらも、誰かと一体となるという共体験をもたらされる芸術文化は、一人一人が変わる体験をもたらすものとして、我々の生き方に対し、体感をとおしてヒントを与えてくれるのです。
(脚注)
*1:「新型コロナウィルスに向き合う文化政策の提言」太下義之
*2:「新型コロナウイルス感染拡大による芸術文化活動への影響に関する調査結果」ケイスリー(株)
*3:「現実を解きほぐすための哲学」小手川正二郎、「人種は存在しない」ベルトラン・ジョルダン