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叔母L子のケース4 コロナ禍での看取り

 そういえば、叔母が亡くなった時、一応義父にも夫から連絡したのですが、すぐに折り返しかかってきて、

「(叔母の生家)にも知らせた方がいいのか」

 なんで赤の他人のお前が出しゃばってくる。必要な連絡はEさんが全部手配するし、なんなら(看取るために)親しい親戚は全員声をかけられてるはずだ、と私が言うまでもなく、

「なんでだよ、Eが連絡するだろ、余計なことするなよ」

 珍しく夫が即答で牽制した。

 ていうか、あの義父、義母が亡くなったときも、なんの役にも立たないしなんで死んだのかも聞かないくせに、知り合いに連絡だけは取る気いっぱいだった。無駄に拡散意欲だけ強い老人ほんと困る。

叔母は人気者

 叔母は生前から、葬儀社の互助会に積み立てていて、それで多分全部プランに入っているのだと思うけど、最初に流れたのはイメージビデオでした。

 遺族が選んだ写真と音楽を組み合わせて、開式の前に流すあれです。

 私と夫、親族席の最前列(遅く行ったので前しかあいてなかった)、モニターの真ん前のアリーナ席みたいな所だったので(言い方)、見やすい分、私はもう映像の頭から号泣。

 その後、なんとか堂のなんとか道士がお経を始めましたが、私は法華経(実家の本家が檀家)か般若心経くらいしかなじみが無かったので、耳に新鮮でした。なんか振り回してるし、印みたいなの結んでるし、サウンドベルみたいな鐘鳴らしてるし、後でなにやってたか調べてみよう。

 それはともかく。

 半分くらい泣いてたので、どういう流れだったのか正直記憶にありません。とにかく、一通り終わったあと、「告別式に来られない方はお顔を見て差し上げてください」的なアナウンスがあって、

 てか、私ら、立場的にはかなーり他人です。夫にとっては叔母ですが、血はつながってないので、叔母の娘さんお孫さんに(実の)ご兄弟がいるこの状況、完全にアウェイ。私なんかちょと親しいお友達枠ですよ。

 遠慮して、一通り面会が済んでから、やっと棺に近づきました。受付の仕事もなくなったT某も一緒。

 叔母は、亡くなった当日よりも、重力の働きでちょっと顎がたるんでて。

「あの時のほうがしゅっとしてたね」「そりゃそうだ」みたいな話をしてたら、叔母の娘さんであるEさんが近づいてきました。

 なんか色々話した気がします。Eさんの娘さんは大学一年生なのですが、お針子さんだった叔母が仕立ててEさんが着た晴れ着を、ちょっと仕立て直してEさんの娘さんに着せて、成人式にこれを着るからねと(もちろんまだ早い)写真を撮って叔母に見せたとか。

 散歩が大好きだった叔母のために、死に装束は散歩の時のスポーツウェアにしたとか。

「仲がよかったから、おばさん(義母)に連れて行かれちゃったねぇ」

「先に連れてって貰わないといけない人がいるんだけどねぇ」

 的な話をしてたら、ちょっと重要な来客が会ったようで、Eさんは離脱。

 入れ替わりに、Eさんの姉のFさんがやってきました。

 Eさんは他県に住んでいて、叔母が亡くなる前日から、ずっと叔母宅に詰めていた人です。

 せっかくなので、聞いてみました。

「叔母さんは、『悪いところはみんな切った』って、あと一年抗がん剤を頑張る気でいたようですが、実際はどうだったんですか」

 私が知っている最初の話は、「入院しています」という叔母からのラインの流れで聞いた、

「病巣が破裂したから、MRIがとれない」「腫れがおさまって開いてみないと中がどうなっているか判らない」からの、

「悪いところは全部とってくれた」「念のために、抗がん剤を入れる。普通の人は半年だけど、私は念のために一年だって」

 叔母は一年頑張るつもりで、抗がん剤の合間に面倒を見ようと、畑に新しくジャガイモまで植えてました。

「……最初は、Eも本当のことをいってたと思うのだけど」

 Fさんの話では、

 開腹したとき、もう転移が進んで、全部とるどころか、必要な最低限の処置をして、閉じた程度だったらしいのです。

 ああ、そうなんだと。

 痛み止めが効かないのは、ガンが進行していて、通常の痛み止めではもう効かなかったのだろう。

 私が最後に会いにいったあの日、

「薬が強くて眠っているかも知れませんが、起こしてください」といっていたのは、つまりはもっと効き目の強い痛み止め、モルヒネ辺りを使っていたのかも知れません。

 膨れた右太腿はリンパ浮腫で、脱水と呼吸困難と意識レベルの低下、「昏迷」は、もう終末期に入っていたからで。

「私、長くないかも知れない」「転移している気がするの」

 という叔母の台詞は、叔母がなにも知らされていなかったのを示しています。もし覚悟していた上で、周りに伏せていたとしたら、こんな言葉は逆に、出てこない。

「この間あなたが来てくれたあとから、急に容態が悪くなってね」

 と、Eさんの旦那さんがぼそりと声をかけてくれたのですが、

 私が、お金を用意して会いにいったあの日、あれが本当に、ギリギリのラインだったのです。

 私が二月頭に実家から戻ってきて、「薬でひどい目にあった」話を叔母から聞いた時に、思い当たらなかったのを悔やむどころか、もうそれ以前に、叔母のガンは進行していたのです。

 義母が亡くなって、納骨まで済んで、それを見届けるように、亡くなってしまったなぁ。

「みんなでご飯食べようよ」

 さて、叔母と顔を見るのを最後まで遠慮していたおかげで、ロビーはだいぶ閑散としていました。

 EさんとFさん家族は、葬儀場の建物内にある控え室に泊まるとのことで、

「お弁当があるからみんなで一緒にご飯食べよう」と言われていたものの、接客の終わらないEさんを待っているうちに夫が眠いと言い始め、お弁当だけ持たされて私と夫は帰宅。

 すっかりE家になじんだT某が残ったわけですが、……帰ってきたのは日付が変わった午前三時。

 聞けば、ずっとみんなで飲んでいたとかで。「あの家の人みんな酒に強いよ」って、まぁ叔母がのんべだったしなぁ。

 私たちの分まで、みんなの話を聞いてきてくれたのならよかったのですが、それにしてもあいつのコミュ力おかしい。

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河東ちか
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