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私たちは「わからない」に対して、考え方を変えなければいけない
美術教育家の田中令さんの”アートにおける 「わかる」と「わからない」”という記事を読みました。
当記事には、
「わかる」には
A:自分の中で納得すること
B:他者との間で同意したり、理解を共有すること
の2つがあると仮定できます。
逆に、「わからない」とは
a:自分自身の中で納得がいかないことと
b:他者との間で同意が生まれなかったり、理解を共有できないこと
―アートにおける 「わかる」と「わからない」/田中令より抜粋
と記載されており、アートの難しさ=わかりにくさだと仮説し、参加者の皆さんと面白い実験が行われる様子が綴られています。
最後にこの記事では
「よくわからないもの」ってネガティブなイメージをもちがちだけど、それをよしとするポジティブな感覚があってもいいのではないか。
むしろそれがアートの世界の魅力なのではないか。
-「よくわからないもの」をネガティブに捉える根拠は、おそらく「再現性」がないから。でもそもそも、その「再現性」はこれからの時代いらないのでは?(大量生産、効率化という文脈で)
-「よくわからないもの」がネガティブなのって「答えが一つである」という概念がベースになっているのでは。
―アートにおける 「わかる」と「わからない」/田中令より抜粋
と、参加者の声で締めくくられていて、確かに「よくわからないもの」ってネガティブなイメージを持ってるなぁ、「わからない」という時点で答えを探しているなぁと思いながら、思考し甲斐がありそうだとここに綴ってみることに。
ここで私の思ったことは、タイトルに題したように「わからない」に対して考え方を変えなければいけない、ということ。
前職で、高校生対象の塾を運営していた時に、生徒が解けない問題に対して「わからん!」とすぐ諦めてしまう光景をよく目にしました。「わからない」からムカついて嫌になる、「わからない」から考えても無駄だと思考停止して諦める、挙句の果てに「どうせ私はバカだから」と自分を決めつけて、自信をなくして俯いていく。
(どうせならこれくらい能天気なほうがいい。笑)
そんな「わからん」を口癖にし、思考を放棄する彼らを思い浮かべながら、再度この記事を読んだ時に思ったこと。それは、人は理解したがる生きもので、だからこそ、「わかった」時、「わかり合った」時に喜びを感じる。けど、VUCAの時代、「よくわからない」が増えるからこそ、あーでもない、こーでもない、こうかなと思考を楽しむ心を持つのは、より必要になるのではと感じました。
まだ、学校で習う勉強においては「正解」があるからそれに向かって「正解を導き出す方法」を学べばいい。(そろそろ学校教育の在り方も見直すべきだと心の底から思うけど。)だけど、耳タコくらい言われているようにこれからはVUCA=予測不可能で正解のない時代、それを「考えようによってはいくらでも正解になる時代」と発想を転換させて、「思考することを楽しむ」人こそが、これからの時代を幸せに生きる人であると。
その点において、アートという正解のない世界で思考することは、思考をトレーニングする手始めにちょうどいいんじゃないか、とアートの時代が来たと偉そうに感じる今日この頃でした。
おわり。