言霊玄修秘宝より大石凝真素美、水谷清、水野満年、朝倉尚絅
大石凝真素美
中村孝道の教えは高弟の望月幸智に引き継がれた。その孫に望月大輔という人物があり、彼こそが孝道の学の大成者なのである。
国学を重視する真須美であったが、国学のみに偏狭にとらわれることなく、あらゆるものを咀嚼、吸収して、己が国学に広汎な生命を注ぎ込もうとしたのである。
慶応三年、真素美数えで三十六歳の時、孝道が弟子に伝えていた言霊・天津金木の秘儀などが玄霧の中からその真個の正体を見せ始めた。
水谷清
真素美の高弟の一人。明治二十七年師範学校を卒業し、正教員を免許せられ、教育者の生涯を突き進んだ。ある夜「大石凝先生の許に赴くべし」とのお告げを被り、神辺村に真素美を尋ね、言霊、天津金木の運用法などの伝授を受けた。その後、出口王仁三郎に招聘されて大本教において講説などもしたが、言霊、天津金木に関する霊書を著した。
水野満年
水谷清と親交があった人物。真素美と知り合い、「古事記」の研究に専心する。
朝倉尚絅
真素美門下の内で、最も信仰的で行動的であった。明治九年生まれの名古屋を去った彼は、ひたすら皇学、国体宣揚に専念することになる。
国学は、山口志道と、中村孝道の系統がありますが、今回取り上げた大石凝真素美は中村孝道の系統となります。そこから国学が拡がり発展し、門下生を多く輩出することになりました。国学が江戸末から明治にかけて隆興したのは、何か意味があったのでしょうか。それとも時充ちたということなのでしょうか。
明治以降文明開化の波で、日本は近代化の一途を辿り国の有り様が大きく変化をしました。そうした激動の前に国学の興隆があったのも興味深く感じます。さらに今また、国学とは言いませんが、カタカムナや阿比留草文字、ヲシテ文字、豊国文字、龍対文字等々の古代文字が注目されるようになったのも、もしかしたら国体が大きく変動する前触れの現象なのかもしれません。
いずれにしても、大変面白い時代を私たちは生きているような気がします。
時充ちて大海原に漕ぎ出でし
今を生きて共にクルーとなれり