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はなたれねこ移住する。第45話 トイレのカギは締めない

ぼくは自宅のトイレのカギは締めない主義である。もっと言えば、独身時代はトイレのドアは閉めない主義だった。なぜ閉めないかと言えば、その必要性を感じなかったからである。結婚してさすがにドアは閉めるようになったが、カギをかける必要性を感じないのでカギは締めないのである。
 
結局のところ必要かどうかがすべてである。例えば来客があったときなどはトイレのカギを締めるのである。それは出先で使うトイレと同じ理屈である。他人には見られたくないのでカギをするというわけだ。
 
ぼくがうんこをしていると、子どもたちはずかずかとトイレに入ってきて勝手に話し始める。ぼくが今うんこ中だからあとにしてよと言っても、いいからとか気にしないとか言って要件を話し出すのである。うんこに集中したいときはちょっと後にしてよ、ドア閉めてと言うのであるが、自分の用事がよほど重要なのか決してトイレから出ていこうとはしない。だからぼくは仕方なく至近距離でこどもの顔を見ながらうんこをひねり出すのである。その様子がおかしいらしくて子どもたちは喜んでいる。
 
五日のはずが三週間に延長されたソロライフの中で、ひとりうんこをしているとふと子どもたちがドアを開けてやってこないかなあなどと想像してしまう。なんだか寂しいなあと思い始めている。その寂しさを表現するためにうんこの話題を持ち出したのである。いや違った。トイレのカギをするかしないかという話題だった。いずれにせよ、日常のほんのふとした瞬間に感情というのは湧き上がってくるものなのだとぼくは思うと屁をこいた。
 
三度目の正直の帰宅日がいよいよ明日に迫っていた。感染者全員が回復している。もっとも感染一番乗りの息子はとっくの昔に回復しており元気一杯で有り余るエネルギーを持て余していた。いよいよ明日会えるねと最後のテレビ電話。もうほんとに最後にしたいよ。


 
十三時四十分羽田着なのに、ぼくは十二時にはもう空港に着いていた。手ぶらで空港に来たのは初めてである。ポケットに新書を一冊つっこんで暇つぶしの準備も万端だった。せっかく来たのだからと思って展望台に登ってみたが、滑走路が少し遠くて轟音ばかりが響いて迫力は今ひとつだった。
 
フードコートで950円もするあんかけ焼きそばを食った。まずくはないが量が少なくて空港価格だなあと思った。ちょうど昼時のせいか、レストランはどこもいっぱいで行列ができていた。ぼくは到着ゲート前のベンチに腰掛けて読書をしようとしたが、文字がちっとも頭にはいってこなくって、あたりを行ったり来たりした。
 
スターフライヤーとANAのコードシェア便は予定より三分早く到着すると出た。飛行機は電車と違って到着したらすぐに降りてこない。到着というのはタッチダウンの時間だろうから、そこからなんやかんや時間がかかって二三十分か。第一降り人がやってきた。その後、続々というよりはぱらぱらと降りてくる。
 
もう半分くらい降りただろうか。まだかまだか小僧。まだまだばあさま。まだかまだか小僧。まだまだばあさま。三枚のお札の鬼婆婆がじれるのもわからんでもない。そしてついに、見覚えのある姿が角を曲がって現れた。子どもたちはガラス戸越しにぼくの姿を認めると「お父さん!」と一声叫んで走ってきた。Oh, my children! 妻はやっと帰ってきたと安堵の声をあげた。
 
こうして三週間ぶりに家族は再会を果たしたのであった。めでたしめでたし。


 
今回のコロナ騒動はいろいろと不幸中の幸いと呼べることがあった。まず妻の実家帰省時に起こったということ。見知らぬ土地のホテルに軟禁でなくて本当に良かった。親類縁者のサポートもあって充実した食生活を送れたのが幸いだった。子どもたちもおばあちゃんとの久しぶりのふれあいを存分に楽しんだようであった。そして感染症に弱いぼくが行かなかったのも幸いだった。もしぼくが行っていたなら、子どもたちの世話をするのではなく自分が世話される立場になっていたのは確実だったろう。
 
何度かの乗り継ぎを経て、列車が都心を離れるとようやく家族みんながほっとした。ぼくらは自然が好きなのである。今思えばよくド都心に十五年も暮らしていたものである。人工的なざわめきは全然なくて、セミたちの合唱が響いている。風がそよぐと木々がこすれる音がする。そして見上げる空が広い。



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ちいさな島
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