100の壁
小学1年生の息子に、算数の基本的な計算の仕方を教えるということは、大学生に微分方程式を教えることよりも格段に難しい。
最近息子に「1+199=?」という問題を出し続けている。
すると彼は「191?」と言う。
さて、こう答えるひとに一体ぼくはどうして計算方法を教えたらよいのだろうか?
「それじゃあ」とぼくは新しい問題を出した。
「99+1=?」
5秒ほどして息子は「100」と答えた。
「正解!じゃあ、1+199=?」
しばらくして息子は、「199+1でもいい?」と聞いた。
「えらい!算数は右と左を置き換えても成立するんだ。置き換え可能ということに気がついたのはいいことだ。199+1でもいいよ。で答えは?」
「……………………191?」
「よ、よし。じゃあ違う問題だすね。98+1=?」
ずいぶん頭をひねっていたようだが、どうしても答えがでてこないのでぼくはまた違う問題を出した。
「じゃあいいよ。8+1=?」
息子は浴槽に(風呂の中でやっているのである)人差し指で縦線をいくつも書いて、つまり8本書いて、そこに1本足して言った。
「9」
「…オーケー。じゃあ、9+1=?」
「ええ!9たす1ィ?…10」
「よし、正解!じゃあ、90+10=?」
「……100」
「オッケー出来たじゃん。そしたら100+100=?」
「いちひゃく?」
「いちひゃくっていう数字はないんだよ。数字は必ず大きい方から順に並べるんだ。」
「101?」
そこでぼくはたまらくなって答えを言ってしまった。
「200!」
「にひゃくかあ」
息子はそうぼくの言葉を繰り返したが本当に納得したのかどうか怪しい。ぼくは明日も同じ問題出すからねと息子に言った。
さて息子は数字が20以下の時は棒を書いてひたすらそれを数えることで答えを導き出している。数字が十分に小さければそれでも構わないが、20を超えたらアウトなことは本人も理解していてすなわち分からないとなる。
彼が何がわからないのかはなんとなくわかる。ゼロの概念がわからない。繰り上がりの意味がわからない。数字がどこまでも続いていて無限に数えられることがわからない。のである。しかしその分からないを知ったからといって、どうやって教えればいいのかが、ぼくには分からない。
例えば大学生に微分方程式やフーリエ変換を教えるのはその順序を見せてやればいいだけだ。何回微分しようが偏微分しようが、その行程さえ丁寧に見せてやればだいたいできるようになる。このぼくでさえ当時は出来ていたのだから(今はもう全部忘れたけど)。しかし小学1年生の息子に同じように計算の順序を見せても理解してくれない。「3+2=?」と聞けば「5」と答えるが、「30+20=?」で答えに詰まり、「300+200=?」で逆ギレする。
つまりそんな大きな数字は学校で習っていないというのである。それでぼくはいやんなる。彼はすでに学校で習うことだけが勉強だと思っているのだ。学校なんてくそくらえだ。学校で習っていないからできないというのは最低の言い訳だ。
「じゃあ、学校で習ったことなら全部できるんだな?」と言ってしまうぼくは大人げない。
「勉強というのは学校だけでするもんじゃないんだよ。いいかい、数字の仕組みを理解すればキミの世界はずっとずっと広がるんだ。お前が好きな昆虫だって数字がわかればもっと深く知ることができるんだよ」
というお説教モードに息子は馬耳東風。こうして言葉を並べることに意味がないのはわかっているが、ついつい口酸っぱくなってしまうのは親心、じゃなくてぼくが未熟だからか。
「インディ・ジョーンズ3」で久しぶりに父親(ショーン・コネリー)に対面したインディアナ(ハリソン・フォード)がこういうシーンがある。「今まで父親らしくしてくれたことなんて一度もなかったじゃないか」それに対して父親は「なに!私がいい父親じゃないだって?私が一度だってお前に宿題しろとか勉強しろだとか口うるさく言ったことがあったか?」
「インディ・ジョーンズ3」を観たのはもう何十年も前のことであるが、このときのセリフがぼくの中に深くささっていて、ぼくが親になったら絶対口うるさく言うまいと固く誓ったのである。それだけ、やれ宿題やれ〜やれ勉強しろ〜と言われることにうんざりしてきたからである。
だからぼくは当初宿題なんてやらなくていいと言ったのである。ただし、宿題はしなくていいが、勉強はできないと行けないとも言ったのである。つまり勉強ができるなら主題というノルマをこなす必要はないという意味である。ところが息子は宿題はしなくていいという部分だけ採用してしまったようだ。その結果、宿題はしなければいけないものに変わってしまったのである。
まったく困ってしまった。なにが困っているのかといえば、息子にとって勉強とはつまらないものであるという認識が出来てしまったことである。勉強は仕方なくするものであり、うんざりするものであり、置いてきぼりにされるものである。だから必然的に学校は退屈を通り越して辛い場所になってしまうのである。先生の言うことを聞くのは怖いからである。授業中静かにしているのはそうしていないといけないからである。
ぼくが小学生の頃に感じたことを何十年も経た現在息子が同じように感じているのはとても辛いことである。勉強とは本来自分の世界を広げてくれる楽しいものであるはずだ。ぼくがそのことについて知ったのはずっとずっと後になってからで、後悔先に立たずがそのとおりになった。だからせめて息子には勉強は楽しいものであると早く気がついてほしいと思っている。ところが今ぼくがやっていることは真逆の効果になっていないだろうかという不安がある。
199+1がトラウマになってしまっては元も子もない。しかしここが分水嶺のような気もする。いや違うかもしれない。困ったな。困った困った。
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