教育も自然も適切な手入れができるかどうかにかかっている。
娘が、わたしが大きくなったときお父さん生きてると聞いた。
ぼくは、どうかなあ死んでるかもしれないなあと答えた。
すると娘は、そこが心配なんだよなあと言った。
畑のトウモロコシがよほど大きくなって、背丈が1メートルくらいになった。
肥料をやらない我が家のトウモロコシが、よそのトウモロコシより高くなっていた。
雨と太陽は平等なんだから、違うのは自ら生きようとする生命力かなと少しうれしくなった。
トマトの剪定をして、ジャングルのようになっていたところを風通しのよい林にした。案の定中心部の葉は枯れており、野放しがよくないことを物語っていた。
自然と子どもは同じである。どちらも手入れが必要である。と、養老先生は言っていた。
きちんと手入れをし続けることが肝要で、それを怠ると混沌に陥るだけである。
「ありのままの自然」を強調するひとは自然を理解していない都市人間である。本当にありのままでいいのなら砂漠だって立派な自然だから緑化などしてはいけないし、河川だって自然のままに触っていけないから水害だらけになる。自然はニュートラルでありブルータルだ。
そうした自分の損得に関係するものには簡単にありのままを手放すくせに、手つかずの森を大事にしようなどと平気でいうひとがいるから腹ただしい。ぼくはちょっと怒っている。
もうおわかりと思うが、手つかずの森など荒廃するだけだ。人間がきちんと手入れをすることがいかに大事か。だからといってナラ枯れを防ぐために根こそぎ伐採するのが正しい手入れとは一ミリも思わない。ぼくはこれは過干渉だと思っている。
子どもの手入れも森の手入れと同じくらいに難しい。
多くの親は過干渉であると感じている。
本人は正しい教育のつもりで言っているのだろうが、自分の思い通りにさせたいだけではないか。
子どもの将来は予測できない。予測できないことを可能性と呼ぶ。そしてこの可能性こそが新しい未来を切り開く力になるはずなのに、大人は予測不能性に恐怖するのだ。ああなればこうなる。因果律という呪縛にがんじがらめになっている大人は予測できない未来に我慢ができない。
よく大人は子どもに我慢しろなどというが、本当に我慢が必要なのは大人のほうである。
本来ならば子どもたちの開かれた未来を大事にしなければいけないのに、閉じよう閉じようとしているのが現代である。
予測できる未来に子どもたちを押し込めた結果、なにが待っているか。どうせ予測するならそこまで予測しないといけない。
もしよろしければサポートをお願いいたします!サポート費は今後の活動費として役立てたいと思います。