『なんもない』ところから何かを生み出したいと思った話
『喜志駅周辺なんもない』という曲がある。
喜志駅は、僕の実家の最寄り駅。駅からは徒歩で45分かかるのだが。
まあ、たしかに楽しい場所はほとんどない。田舎にある駅を絵に描いたようなところだ。
ただ、生活に困るほどのド田舎ではない。サンプラもあるし。
2024年、そんな「なんもない」喜志駅周辺で、僕の人生は少し変わった。
父が亡くなった。喜志駅周辺で葬式をあげた。
孫が産まれた。喜志駅周辺で産声をあげた。
僕は、喜志駅周辺にある学校で、写真についての学びを始めた。
ライターをしていると、取材先で写真を撮るケースがままある。
最初のうちは「簡単にできるやろ」と甘く考えていたので、けっこう好き勝手に撮っていたが、やはりボロは出るもの。クオリティの低さを指摘され、何も反論できない自分がどうしようもなく恥ずかしく、情けなかった。
クライアントが求めるものを希望どおりに撮影するには、最低限の知識と技術は必要だなと痛感する。
話は変わるが、僕は飽き性で人に自慢できる特技はない。何をしても長続きしなかったのは、基本を軽視していきなり応用を目指したところにあると、今になって思う。
ものごとは守破離。基本をおろそかにしていては、新しい何かは生み出せない。自己流でうまくやれる人は、あらためて学ぶ必要はないだろう。しかし、僕は自己流では失敗すると経験上わかっている。そこで、大学で写真の基本を学ぼうと、通信教育部の門を叩いた。
「しょせん通信教育でしょう?」「いい歳して今から写真を勉強するの?」そういう意見もわからなくはないが、その場で足踏みしているより何十倍もマシな選択だ、と自分では思っている。
最近、写真撮影が本当に面白くなってきた。まるで恋愛初期のように、何をしていても楽しい。
僕は「趣味を仕事にする」という考え方には割と否定的だし、仕事にすると趣味が趣味ではなくなり、楽しくできなくなると思っている。ただ「好きを仕事に」というのは、何となくわかってきた。好きなことをして、おひねりをもらうイメージ。
クライアントの希望通りに写真を撮るのと、自由気ままに撮る写真は違う。しかし、どちらも誰かを喜ばせたいと思って撮っているところは同じ。ライターの仕事でも、考え方は同様。どちらも楽しいし、やりがいを感じている。
偉そうに聞こえるかもしれないが、人の心に響く仕事をしていきたいし、大切にしたいものだ。
2025年の目標は「生きる」こと。
ふざけているわけではなく、真面目に思っている。
ここ最近、同年代の方が亡くなるニュースが増えた。僕もちょっとずつ寿命に近づいている。体力も目に見えて落ちてきた。この事実には抗えない。
でも、僕の知らない楽しいことがこの先に待っているはず。執筆も写真撮影も、まだまだやりたいことはたくさんある。
僕には、死ぬ暇はないのだ。
『なんもない』ところから何かを生み出す力をつける。これをライフワークにして、細く長く生きていこうと思う。合掌。