マークフィッシャー メモ

資本主義リアリズム マーク・フィッシャー 全九章
第一章
 筆者はsf映画のストーリー引き合いに資本主義リアリズムを説明するために、資本主義の終わりより世界の終わりを想像する方が容易いと強調。ポストモダンと資本主義リアリズムの定義の違い、また両者の相違点を主張。
 「リアリズム」とはどんな希望でさえも、前向きな姿勢でさえも危険な状態と認識してしまう鬱病の、”デフレ的視点”と類似している。資本主義は場当たり的な基準や道徳を再インストールする。デバイスのOSのようなものと想像すればよいか?
 ニーチェの『反時代的考察』を引用。同氏の「最後の人」(全てを知りながら、己の意識の過剰さによって堕落し、弱体化させらる状態)をフクヤマの警告を説明。ここにおいてフクヤマの「歴史の終わり」はマルクス的なものではないと強調している。
 フィッシャーが「資本主義リアリズム」という単語をあえて用いる理由について、第一にポストモダニズムという単語が使われ始めた頃(80年代)には資本主義に台頭する政治的オルタナティブが存在しており、資本主義以外のオルタナティブ以外最悪だという消去法によって資本主義が至極現実的に選択されたこと。(このことを筆者はリアリズムと称している)第二に、資本主義リアリズムはポストモダニズムとは対立関係になくもはや否定する立場にあるということ。つまり、今やモダニズムは定期的に復活する形式美の産物に過ぎず、生き方を支える理念にはならない。第三に、そもそも資本主義とは外部のものを内部化するすることがプログラムに内蔵されていてそれによって発展するのだが、今や地球上すべてのものを内部化(植民地化)してしまっているので、ブルーオーシャンが存在しない。そのために私たは資本主義文化による欲望、期待を抱く。さらに、希望を簡略化する行為を行うようになる。((あらゆる事象が事前に予測され、追跡され、購入され、売却されることによる失望と疲労感)キーワード:コバーンの死、シュートピアとプロメテウス的野心の敗北、ギャンスタ映画;スカーフェイス、ゴッドファーザー、パルプフィクション、グッドフェローズ、レザボアドッグズ)

第二章
  この章では抗議活動について、それと資本主義の性格と構造的な内包性について言及されている。資本主義リアリズムにおいて反資本主義は、資本主義を打倒するものではなく、むしろ増強させるものである。ピクサー映画「ウォーリー」を例に挙げて前文の妥当性を我々に説明する。それは映画に登場する未来人(車椅子のような装置に乗っていて、太っており、謎の液体のみでエネルギーを補強している)を消費資本主義の行き過ぎた例として皮肉っている、そして映画を見る観客ですらその皮肉の一部となる。映画が反資本主義を仮想的に実行することで現実世界に生きる私たちの代わりに反資本主義を実行しているために、私たちは罪悪感に苦しめられることなく消費生活を謳歌している。
 資本主義のイデオロギーの役割とは資本がすべての主観的観念に依存することなく、機能してしまうことを隠蔽することだ。資本主義が悪だと心の中で確信しているからこそ、資本主義の市場に私たちは自由に参加できることになる。つまり、心の中で資本に対し距離を保つことで、私たちは行動におい拝金主義の立場を取ることができる。あらゆる抗議活動はグローバルエリートに対して行われるものであるが、その主催者はグローバルエリートである。資本主義に対してのオルタナティブを提唱することは目的ではなくむしろ、資本主義以外ないのだという観念を強化するものでしかない。また、抗議活動は消費の対象になる。この抗議活動に参加すれば、”良い人(思いやりのある人)”が飢餓などの普遍的な社会問題に終止符を打つことができる保証という、一つの投機財になってしまうということだ。西洋的な消費主義は世界規模の構造的な諸問題に関わっていないし、その問題を自らで解決できるという幻想において、わたしたちは”正しい商品”(思いやりのある人が社会の諸問題を解決すること)を選んで買ってしまえばいい。
 このように、ジェンダーや動物愛護、人種差別、飢餓問題、環境問題といった世界規模での抗議活動は、すべからく消費財にしかならないとわたしは感じた。全ての抗議活動はポーズにすぎず、それを主催するエリートが利益を生むように巧みに仕組まれている。24時間テレビもその類だろうか。

第三章
 資本主義リアリズムとは著者オリジナルの造語ではなく、元々社会主義リアリズムをパロディーとしたものであったが、本著においてはより包括的で膨大な意味づけをしている。その内容として、アートや広告などでの擬似的なプロパガンダ的な仕組みにとどまるだけでなく、教育と労働の規制を条件付けながら、それにより思考と行動を制約する広く蔓延する雰囲気のようなものとしている。資本主義リアリズムを揺るがすことのできる唯一の手段はそれを擁護不可能な矛盾を孕むものとして、”リアリズム(現実主義)”が実はそれほど現実的ではないと証明すること。ラカン的な手法を用いいて、「リアル」(現実界)と「リアリティ」(現実)を区別することが重要。ラカンにとってのリアルとは、全ての”現実”が抑圧しなければならないものである。抑圧によって現実を構成する。この現実の裂け目や、辻褄の合わないところに”リアル”が存在する。資本主義リアリズムにおける、解決不可能な問題は二つ存在する。その一つがメンタルヘルスである。これまでメンタルヘルスは天気のような自然な現象として取り扱われてきたが、現在必要になることはありふれたメンタルヘルスの政治化である。つまり、精神的な解決を個人的な問題、自己責任とするのではなく、資本主義が生み出す問題として考えて、資本主義がサステイナブルな社会制度ではなく、本質的に機能不全と見なすことが正しい。もう一つの問題とは、官僚主義である。新自由主義が勝利を収めて官僚主義は過ぎ去ったかのように思えるが、依然として役所仕事的な形式主義が日常生活に欠かせないことは、後期経済主義に生きる私たちにとっては日常である。これが示すことは資本主義リアリズムが提示するイメージと、実際に資本主義が動く仕組みは食い違っているということである。

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