【ネタバレ注意】車×女子はいいぞ! 「シュガー・ラッシュ:オンライン」におけるプリンセス幻想とジェンダーロールの破壊
先日公開したピクサー映画「カーズ/クロスロード」の記事にて、同作が「車」をモチーフにジェンダー、とりわけ「女性」にエールを送る作品だと書きましたが、その後ディズニー/ピクサーは更にこの組み合わせで別のシリーズの続編を製作し、またもや高評価を得ることとなります。それが2018年公開の「シュガー・ラッシュ:オンライン」(原題:Ralph Breaks the Internet)です。
本作は2012年に公開された「シュガー・ラッシュ」の続編で、前作がゲーセンの筐体という閉じた世界を舞台としていたのに対し、本作は邦題が示すとおりインターネットの広大な世界が舞台です。
劇中には、GoogleやeBay、Twitter、Pinterest、はてはディズニーの公式サイトをはじめとする虚実入り混じったインターネットサービスやアプリが登場し、インターネットそのものがまるで仮想空間のように描かれているのも本作の目玉の一つです。
ところが、そんな楽し気な雰囲気とは裏腹に描かれるテーマが…
・実存主義
・依存と独占欲
・ジェネレーション・ギャップ
・時代についていけないおっさんはどうすりゃいいのか問題
・ジェンダー
といずれも辛口で、やはりピクサーによるディズニー掌握以降の「子供と大人の双方を対象とする」作品となっていました。
まず何が凄いって、開始から10分経つか経たないかという時点でヴァネロペが「仕事のやりがい」と「自分の生きる意味」を考え始めていることです。ヴァネロペ意識高い系かよ!彼らアーケードゲームのキャラクターの仕事は、ゲーセンの開店時間に合わせて自分のゲームの中でお客さんの相手をすること。それが終わった後は、各自電源タップと筐体の中を行き来して翌日の開店時間が来るまで遊んだり飲み食いしたり友達や家族と過ごしたりしています。ラルフは今の仕事を続けてヴァネロペと一緒に遊んで暮らす生活に心底満足していますが、ヴァネロペは変化のない毎日に飽き飽きしており、もっとやりがいのある仕事を望み、かつ人生の意味を考えるようになります。これはヤバいやつだ。こうした
男と女のペアがいる
↓
男は現状維持を望む
↓
女は新たな世界を知り進化していく
というパターンは実に古典的で、これまでこのパターンで多くの作品が作られてきました。最近の映画だと「ラ・ラ・ランド」もまさにそうで、また現実でもよくあることです。このパターンになると、続きは…
自分を置き去りにして進化する女に男が嫉妬する
↓
男が女の足を引っ張る
↓
破局
↓
女は成功し男は自滅
十中八九これです。そして、この「シュガー・ラッシュ:オンライン」も予想どおりかなりギリギリまで綺麗にこのパターンを踏襲します。なお、ヴァネロペが飽きていた「変化のない毎日」は、完成した筐体という「製品」を店舗に置き、それ以降アップデートすることのないアーケードゲームの特徴を的確にとらえており、だからこそ常にアップデートし続けるインターネットの世界へ行くという流れが非常に上手いと思いました。
で、すったもんだあってWiFiに乗ってインターネットの世界に降り立ったラルフとヴァネロペでしたが、その世界に戸惑い、違和感を感じるばかりのラルフに対し、ヴァネロペは爆速で適応しインターネットの面白さや便利さを理解します。そう、ラルフは80年代に開発された8bitアーケードのキャラクターなのに対し、ヴァネロペは2010年代に開発されたフル3Dアーケードのキャラクター。ここでジェネレーション・ギャップとディズニー/ピクサーが「カールじいさんの空飛ぶ家」や「カーズ/クロスロード」でもテーマとしてきた「時代についていけないおっさんはどうすりゃいいのか問題」がぶっ込まれます。
さらに恐ろしいのは、この時点でラルフの方が完全にヴァネロペに依存していることです。ヴァネロペは「やりがいのある仕事」や「自分の生きる意味」を考えているのに対し、ラルフはそれらをまるで考えず、「前作でヴァネロペを助けた俺」「ヴァネロペから”Your My Hero(私のヒーロー)”のメダルをもらった俺」「ヴァネロペの親友の俺」「今回もヴァネロペを助けなきゃいけない俺」と、ヴァネロペを起点としたアイデンティティしか持っておらず、それ以外の自己を掘り下げず、疑問すら持ちません。しかもヴァネロペは見た目が幼女なのに対し、ラルフはデカいおっさん。いい歳こいたおっさんが幼女に依存しているという、絵的な気持ち悪さまで醸し出したヤバさがあります。
そんな中、遂にヴァネロペは自分の理想にドンピシャな世界観の大人向けオンラインレースゲーム「スローター・レース」に出会ってしまいます。
Rockstar Gamesが開発してそう
ネトゲならプレイヤーの行動でシナリオが変化するしゲーム自体のアップデートもあります。おまけにこの見た目でキャラクターがみんな良い人でTEDを見ている意識高い系。ヴァネロペはこの世界とキャラクター達にすっかり魅了され、特に自分以上に素晴らしいドライビング・テクニックを持つラスボスの「シャンク」(真ん中の女性)に憧れるようになります。
主人公の少女の傍らに年上の女性というキャラクター配置はジブリ的ですが、この後さらに本作はディズニーにしか出せない「年上の女性」を大量に登場させます。それが事前情報でも話題となり宣伝にもさんざん使用されていた14人のディズニープリンセス達です。
ディズニーの公式サイトにはプリンセス専用の控室があり、そこに迷い込んだヴァネロペにラプンツェルがこう質問します。
「大きくて強い男がいなければなんにもできないと思われてる?(Do people assume all your problems got solved because a big, strong man showed up?)」
それにYesと答えたヴァネロペは見事”プリンセス認定”されるのですが、これこそが本作最大のディズニーの自虐ネタにして重要なテーマです。ジブリ作品がディズニーによって本格的に海外展開されるようになった後、リベラルな親たちは「うちの娘にはディズニーではなくジブリを見せている。ディズニープリンセスは男に助けられてばかりだが、ジブリの女性は自ら行動しているから」と発言するようになりました。
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その一方、ディズニープリンセスの人気は未だ健在で、ディズニーランドに行けば子供向けのプリンセスのドレスがあるし、ディズニーアンバサダーホテルではプリンセスのコスプレで挙式が可能。もはや単なる映画の主人公以上の価値(主に金銭的な)を持っています。そんな状況下で上記のセリフをプリンセス本人から言わせることがいかに皮肉かつ衝撃的か。さらに象徴的なのは、このシーンの後、ヴァネロペを真似してプリンセス全員がドレスを脱いでカジュアルウェアでくつろぐシーンです。
まさに”ありのままの姿”
このシーンは前作「シュガー・ラッシュ」のラストと対になっています。前作でヴァネロペの正体は「シュガー・ラッシュ」世界におけるプリンセスであることが明らかになるのですが、せっかく本来のドレス姿のプリンセスに戻ったのに、ヴァネロペは「カジュアルウェアの方が自分らしいから」という理由でそれを脱ぎ捨ててしまいます。自らの意思でドレスを脱ぎ捨てられるヴァネロペは、だからこそ「レーサー」というプリンセス以外のものになれる自由を獲得しています。しかし他のディズニープリンセス達は、せっかくカジュアルウェアに着替えてくつろいでいたのに再びドレスを着て人々の前に出ることを求められます。彼女たちはディズニーの公式サイトに訪れるファンのアンケートによって登場するコンテンツだったから。ここで先のラプンツェルのセリフが生きてきます。「Do people assume (人々は~見なしている、決めつけている)」、プリンセスが男に助けられてばかりだと勝手に決めつけているのはお前らディズニーファン自身だろ、と。
今回総登場した14人のプリンセスを改めて一覧すると、肌の色も髪の色も皆それぞれ異なり、あらゆる人種・民族が揃っていることが分かり、ディズニーは時代に合わせて結構がんばって新たなプリンセス像を提示していたことが分かります。確かに「白雪姫」や「眠れる森の美女」といった古典的作品は王子様の助けを待つ典型的なプリンセスでしたが、80年代には自ら積極的に行動する「リトル・マーメイド」のアリエルや「美女と野獣」のベルが登場し、元ネタのおとぎ話を大胆に解釈・再構築する手法が採用されます。その後に「アラジン」のジャスミン(中東人)や「ポカホンタス」(ネイティブアメリカン)、「ムーラン」(アジア人)といった欧州の白人ではないプリンセスが続々と登場し、2009年に「プリンセスと魔法のキス」にて初の黒人プリンセスのティアナが、2016年に「モアナと伝説の海」にてオセアニア人プリンセスのモアナが登場。加えて2014年「アナと雪の女王」では王子様がヴィランとなり、恋愛対象となるクリストフはストーリーにさほど影響を与えないという新たな展開が示され、「モアナと伝説の海」ではもはや最初から最後まで恋愛要素一切なし。
それでもディズニーファンはホワイトナイトが現れる”男女の恋愛”が伴うプリンセスに幻想を抱き、それを良しとしないリベラルも「ディズニープリンセスは男に助けられてばかり」というステレオタイプを改めようとしない。憧れる方も批判する方も旧態依然としたステレオタイプにはまってんだよ!という”プリンセス蔑視”をプリンセスたちのカジュアルウェアで突き付けているというわけです。これを、これまでプリンセス商品で相当な収益を上げてきたディズニー自身がやるインパクトたるや。もっとも、カジュアルウェア姿のプリンセス商品が既に大量に販売されており、さすがディズニー抜け目ねえな!という感じではありますが。
これは確実に売れる
このようにステレオタイプにはめられたプリンセス達はヴァネロペに「人生の夢は何か?」と、これまたド直球に実存主義的な問いかけをします。ディズニープリンセスは、自分にとって大事な「水」に顔を映すと突然ミュージカルが始まって人生の夢が分かるのだと、典型的なプリンセスのパターンを出してさらに自虐ネタをかましてくるのですが、ヴァネロペは汚い道路の水たまりに顔を映し「荒廃した薄汚い世界でゴツい車を走らせる」という、もうプリンセス云々以前に従来の”女の子キャラクター”としてどうか?という夢を見つけ、「スローター・レース」のキャラクターたちと共に歌い踊ります。繰り返しになりますが、ディズニー自身がこうしたシーンを描くのは自虐ネタ・セルフパロディとは言え革命的です。今も世界中の女の子や女性が憧れているディズニープリンセス全員と会っておきながら、ヴァネロペはそんな世界観よりも薄汚い「スローター・レース」の世界とカーレースに魅了され、しかもそこのボスもまた女性であるという。女が薄汚い世界で車を爆走させてもいいのだとディズニーが描くことが、如何に女の子達の魂を自由にするか。今ふと思いましたが、絶対ディズニーの社内に「マッドマックス」シリーズが好きなスタッフがいますよね。
あと「女が爆走」「女が薄汚い世界のボス」というモチーフは、先の記事で書いた「カーズ/クロスロード」のデモリション・ダービーの不敗の女王「ミス・フリッター」とも共通しています。
ディズニープリンセス達との出会いによって自分の夢が明確になったヴァネロペは、その時点で「シュガー・ラッシュ」には帰らず「スローター・レース」の中で生きていく決意をしますが、ラルフにはこれが許せません。これまでずっと俺と一緒にアーケードゲームの世界で生きてきたのに、これまでも今もずっと俺が助けてやってるのに…と、嫉妬、依存、独占欲が混ざったドス黒い感情に支配され、典型的な「女の足を引っ張る男」へと変貌。ここで、本作の真のヴィランはラルフであることが分かってきます。前作で仲良くなった奴、しかも主人公が身から出た狂気によってヴィランに変貌するってリアル過ぎて怖い、「アナと雪の女王」の王子よりずっとヤバいです。
まあ何だかんだあっても最後には大団円になるのがディズニー/ピクサー、最終的にヴァネロペもラルフも助かるのですが、絶妙なタイミングで現れてラルフを助ける”ホワイトナイト”がカジュアルウェア姿の14人のプリンセス達です。この時、プリンセス達はそれまで自分たちが身に着けていたドレスと武器(?)、および特技を組み合わせてラルフ救助ギミックを作るのですが、助けられる際、ラルフはなぜか白雪姫のドレスを着せられ、「眠れる森の美女」のオーロラのベッドに着地し、「プリンセスと魔法のキス」のカエル王子とキスして目覚めます。この一連のシーンはあくまでもコミカルに描かれ時間的にも非常に短いのですが、ディズニー史上最も革新的なシーンなうえに前作「シュガー・ラッシュ」から続く対比&円環構造になっています。ヴァネロペはドレスを脱いでプリンセスから荒廃した世界のレーサーとなり、一方ラルフは粗暴な悪役の大男だったのにドレスを着せられて男とキスして目覚め、元のアーケードゲームの世界へと帰っていきます。
前作「シュガー・ラッシュ」は、人は出自に縛られず自由に生きられることを示した作品で、ゲームの悪役として生み出されたラルフはヴァネロペのヒーローとなり、ヴァネロペもプリンセスをやめてレーサーとして生きる道を選びましたが、本作ではさらに踏み込み、他者から与えられた設定や役割だけでなく、生まれた場所やジェンダーロールからも自由になれることを描いています。コミカルで短いシーンとはいえ、「男だって女に助けられてもいい」「男だってドレスを着てもいい」「男同士でキスしてもいい」と示したのは、ただの映画のストーリーや演出を越え、「昔は受け身なプリンセスを描いていましたが現在のディズニーはこうです」という「宣言」ではないかと思います。
本作は、変化することのないアーケードゲームから常にアップデートし続けるインターネットへと舞台を移したストーリーでしたが、「変化しない」から「アップデート」へ、というストーリー展開は、ディズニー作品全体、およびディズニーの企業としての姿勢そのものを示しているとも考えられます。時代が変われば人の生き様も価値観も変化する、企業もそれに合わせて方針を変えるし、提供する商品やサービスも変える。つまり、「生きること」それ自体が「常にアップデートし続けること」だ!というのが本作の真のテーマなのかもしれません。
ただ…そうなるとラルフの今後の人生に果たして明るい未来はあるのか?という疑問が残ります。インターネットの世界に移住したヴァネロペは、たとえ「スローター・レース」がサービスを終了してもまた新たな場所に移住することができますが、レトロなアーケードゲーム筐体の行きつく先は故障→廃棄か、良くてどこかのゲーム博物館への収蔵。いくら他のアーケードゲームのキャラクターと仲良くしたところで、変化しない世界に永久に閉じ込められたままです。時代についていけないおっさんは、若者にバトンを渡したらひっそりと消えるしかないのか?辺鄙なところに閉じ込められて終わりなのか?と深読みすると、それはそれで怖いし後味が悪いです。もうこうなったら、ラルフの老後の救済のため「アメリカのゲーセンもオンライン対応することになりました!」「80年代のレトロアーケードゲームをVRアトラクションにして蘇らせます!」みたいな三作目を作ってトリロジーにしてしまえばいいんじゃないでしょうか?時代についていけない?ふざけんな年寄りも時代に食らいつけ!というテーマにして。
あとディズニー社内にワイスピが好きなスタッフも絶対いますよね?