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【ネタバレ注意】ルネサンス人文主義だよドラえもん!「のび太と空の理想郷」

9月3日はドラえもんの誕生日です。それにちなんで久々に映画館で鑑賞し「これはやべえ…」と思ったドラえもん映画のレビューを書きます。それは2023年公開の「映画ドラえもん:のび太と空の理想郷(ユートピア)」です。

このメインビジュアルから、一見レトロテイストな航空アクションではないかという印象を受け、実際オープニングもアンティーク感があってスチームパンクテイストのSFでは?と思わせる演出でしたが、これがとんでもない。もうド直球で「カルトの洗脳からの脱却」なストーリーでした。このカラフルで楽しそうなビジュアルからはとても想像できない嫌な方向にリアルな設定と演出で。
もともとドラえもん映画は藤子F先生存命当時から妙に公開当時の世相とリンクしたり、もしくはほんのちょっと先の事件を予言したりする不思議な時代とのシンクロニシティがあったのですが、本作はまさにそれでした。本作公開当時の2023年前半はちょうどカルト宗教やその信徒の二世が抱える問題が話題になってる時期で、また後半にはジャニーズ問題も噴出。ドラえもん映画の企画なんてかなり早くから動いているだろうに、公開当時にこのモチーフか!という予言のようなシンクロニシティでした。

共産主義の理想郷

本作のストーリー自体は非常にオーソドックスで従来のドラ映画をなぞったものです。学校で出木杉が読んだ本の話をして、それに触発されたのび太が妄想を膨らませ、それに乗せられたドラえもんが道具を工面し、何だかんだいつもの5人でどこかにいっててんやわんやする。しかし本作はその冒頭部分から既に不穏なネタを提示します。それは出木杉が読んだ本がトマス・モアの「ユートピア」だったというもの。のび太は出木杉から本の中で描かれている理想郷(ユートピア)の概要だけを聞いて妄想を膨らませ勝手にそこが完全無欠の楽園であり実在すると思い込みます。

しかし、トマス・モアの「ユートピア」で理想郷として描かれている島は今読むと完全に共産主義国家です。これは当時イギリスで地主がフランドルとの羊毛取引のために農場を囲い込んで羊を飼い従来の村落共同体を破壊し、困窮した農民をなんの補償もなく放り出していた世相を批判しての設定でした。つまりトマス・モアの「ユートピア」は、自由主義経済の高まりとそれに伴う貧富の格差拡大のカウンターとして書かれた、ルネサンス人文主義者らしい非常に理想的な共産主義国家でしたが、だからこそトマス・モア自身も「この世にはない世界」で「実現し得ない世界」としていました。

トマス・モアの「ユートピア」で描かれている理想郷はざっとこんな感じ。

・三日月型の島
・住民の私有財産所持は認められていない
・仕事の成果は皆で共有し与え合う
・住民の職業は一次産業と手工業
・1日の労働時間は6時間
・決まった時間に起きて決まった時間に寝る
・住民はシンプルな同じ服を着ている
・住居はあらかじめ用意されたもののみ
・食事は食堂で皆同じものを食べる

「のび太と空の理想郷」に登場する理想郷「パラダピア」はデザインを未来風にしただけでこのトマス・モアの「ユートピア」をほぼ踏襲しています。頭からユートピアは良いところだと信じ、そして実際に発見して入国に成功したドラ一行は、パラダピアの見た目だけで良い場所だと錯覚し勧められるまま滞在します。
でもちょっと考えてみたら様子がおかしいのは明らか。ドラえもんの時間軸とほぼ同じ未来の技術で建設された理想郷で、なぜ住民はわざわざ一次産業と手工業をしているのか?それも手作業で畑仕事をしたり、網で魚を取ったり、乳牛を世話したり、器を焼いて絵付けをする本当の手仕事を。本作が上手いのは、前半までパラダピアが本当に美しく良い場所だと誰もが思ってしまうように綺麗に描いていることです。しかし冒頭にトマス・モアの「ユートピア」が出てきたこと、それがどんな時代背景のもと執筆され、どんな世界が描かれ、それが現在ではどんな評価をされているか、加えて現代のリアルなカルトがどういうことをやりがちかを思い出せば、全てが嘘だと一発で分かります。

で、ここからはネタバレになりますが、パラダピアは未来のマッドサイエンティストが作った巨大なカルト洗脳実験施設でした。それも世界征服して世界を我が物にしてやろうと外向きの野心ではなく、周囲に否定され続けて自己肯定感がドン下がりになった人間が引きこもる形で暴走し他者も巻き込むという内向きの狂気。その狂気に囚われた未来の科学者は、自分が開発した「誰でも穏やかに従順になる光」を中心に据えパラダピアを作り、自分と同じく嫌なことに直面した人を言葉巧みに取り込んでいき、自身が開発した洗脳システムの検証をします。この人間のちょっとした心の隙間に入り込む手法はまさに洗脳そのもの。宗教も思想もみんなこの手口を使います。
この「誰でも穏やかに従順になる光」を長時間浴び続けると、人々はパラダピアの環境に一切疑問を抱かなくなり、ただ日常的なルーティンを繰り返し、それに満足し日々を生きるようになります。そして何より大きな感情の動きがなくなり、常時アルカイックスマイルのような微笑みを浮かべた表情しかできなくなります。しかしその一方、みんな穏やかになるので喧嘩や諍い、トラブル等は一切なし。子供達はこの光を浴びながら学校で「誰でもパーフェクト小学生になれる教育」を受けていますが、そこにはいじめはおろか些細なアグレッションすらもなく、問題を間違えても先生は叱責せず、他の子供達も全くバカにしないどころか励ましの言葉さえかける。確かに全てマッドサイエンティストが作り上げた嘘の環境下で皆が洗脳されているものの、その環境自体は非常に理想的なのです。

バカとポンコツの存在意義

しかしこれにいち早く違和感と疑問を抱いたのが、本来なら一番この環境を享受するべきダメ小学生ののび太とドラえもんでした。のび太は自分を全くバカにせず優等生に矯正されてしまったジャイアンとスネ夫に恐怖を覚えます。そしてのび太はいくら光を浴びようがパーフェクト小学生になれる教育を受けようが全く進歩せず、いつまで経っても頑なにダメなまま。未来の技術の洗脳光線や教育プログラムをもってしても変わらない最強のストロングバカっぷりを炸裂させます。
それに加え、ドラえもんはロボットで生物ではないのでそもそも光の影響は受けず、パーフェクトになるには改造するしかないことが示され、後半から未来の技術でも変わらないストロングバカと初期不良ポンコツというダメ極まりないコンビが洗脳コミュニティを破壊するというもの凄い反転を見せてきます。

痴愚神礼賛

ここでふと思ったのは、本作はトマス・モアだけでなく彼の友達のデジデリウス・エラスムスの著作もネタ元になっているのではないかということです。特にパーフェクト小学生になれる学校は彼の「幼児教育論」が、洗脳されているパラダピアの住人の様子は「痴愚神礼賛」がイメージソースのような気がします。

エラスムスは高名な司祭の父と医師の娘の母という正式な結婚をしていない両親の私生児として生まれるルネッサンスのド腐れカトリックあるあるの出自でしたが、私生児でもちゃんと教育するルネッサンス当時の大らかな社会で育ち、長じてからはカトリック教会の問題を批判しながらも分裂するのではなく問題を解決し融和と一致を目指すべきとの中道を標榜する人文主義学者となりました。トマス・モアとは生涯を通じて親友で、宗教改革で有名なルターとも最初は友達でしたが徐々にルターが過激になり袂を分つこととなります。
エラスムスの「幼児教育論」は、子供も大人と同様一個の人間なのだからちゃんと手間暇と時間を割いて教育しなければならない、子供に体罰を加えたり罵ったりするのは自由人の教育とは言えず、人間を奴隷化する悪しき行いだという内容で、人類の歴史上最初の子供の人権宣言とも言われています。劇中で描かれる「誰でもパーフェクトになれる学校」の描き方はまさにこのエラスムスの幼児教育論を具現化したようなもので、現在の日本の教育現場へのアンチテーゼとも取れます。しかしそれは先生すら洗脳されている閉鎖的な洗脳コミュニティの中で実現しているというのがとんでもなく皮肉ですが。
そこでもう一つ想起させられるのが、同じくエラそして「痴愚神礼賛」は、エラスムスが旅行中に着想し、ロンドンに到着した時にトマス・モアの家に一週間泊めてもらい、その期間に一気に書き上げたという風刺文学。思いつきで一週間で書いたエラスムス的には軽い読み物でしたが、ちょうど印刷技術が発達した時代だったもんだから欧州各国で勝手に翻訳版や海賊版が数十万部も刷られる大ベストセラーとなり、教会や宮廷もネタにする当時としては過激な内容だったため、教会、聖職者、権力者に目の敵にされ発禁処分を受けることもありました。本人はあくまでも中道だったのに。その内容は、痴愚を司る女神モリアー(トマス・モアの苗字のラテン語読みにちなんだ名前)が、人間と人間社会の愚かさを軽妙洒脱に風刺する演説を行うというもの。その中で王侯貴族、聖職者、学者といった権威と権力を持つ人々を「自分はバカではないと思っている人もみんなバカ」と天才バカボンのオープニングテーマのようなことを言ってこき下ろし、最後に「人間の営みの根底は痴愚であり、人間は愚かであればあるほど幸せになれる」と説きます。モリアーはあらゆる人間の愚かさを並べ立てますが、共通しているのは「深く考えない」ことと「知ろうとしない」こと、「周囲に流される」こと。これらによりあらゆる種類の愚かさと人間社会の問題が生じ、またこれらは洗脳されている人の状態でもあります。

ここで洗脳を逃れたのび太とドラえもんを鑑みると、のび太は自分が何が好きで何が嫌いか、何をしたくて何をしたくないかはっきりと分かっており、どんな時もそれを貫く不変のストロングバカで、ドラえもんも終盤「今の自分のままでいい」と断言する自己肯定感最強ポンコツであることが示されます。そして重要なのは、彼らがバカ&ポンコツであるお互いをその短所も含め肯定しており、また同様にジャイアン、スネ夫、しずかのことも短所も含め肯定していること。自身も他者も短所も長所も全てまとめて肯定せよという非常に強烈なメッセージではないかと思います。この全肯定ぶりは、時代こそ違えどニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」や、精神も肉体も男性も女性も白人も有色人種も何もかも全肯定していたアメリカの詩人ウォルト・ホイットマンにも通じるような気がします。

奴隷のメタファーとしてのロボット

なお、ドラえもん映画には必ずゲストキャラが登場しますが、本作には自己肯定感最強のドラえもんと対になる存在としてパラダピアで使役されているネコ型ロボット「ソーニャ」が登場します。彼は以前ダメなロボットで捨てられたところをパラダピアに拾われ、パーフェクトなロボットに改造されたという経歴で、以前は持ち主に虐待されていたことも匂わせます。
なお、トマス・モアの「ユートピア」で描かれていながらパラダピアには描かれなかったものに「奴隷」がありますが、おそらくソーニャおよびその他のパラダピアで使役されていたロボットたちは奴隷のメタファーだったのでしょう。彼は改造に加え「命令を聞かなかったら以前のダメなロボットに戻すぞ!」と脅されて使役されており、自分の所有物である四次元ポケットおよびその中に入っている道具を奪われ、パラダピアの服を着せられ腕輪を着けさせられていました。この「腕輪」というモチーフも奴隷を想起させます。そもそも「Robot」の語源はチェコ語で「強制労働」を意味する「robota」と、スロバキア語で「労働者」を意味する「robotnik」なのだから。

しかし本作はそれに対するアンチテーゼとして「猫型ロボットの開発の背景」をドラえもんに語らせます。おそらくこれは本作が初登場の設定ですが、ドラえもんという作品自体が締め切りに追われた藤子F先生の苦し紛れにできたもので、細かい設定の多くは後からアシスタントが付け足したものだったそうだから、今新たに付け足しがあってもまあいいでしょう。その猫型ロボット開発の背景は「猫型ロボットは人間の言うことをきくために作られたんじゃない。人間の友達になるために作られた」というもの。なんで人間の言うことをきかないかってそりゃ猫なんだからきくわけねえだろ!という納得しかない設定です。だから本来人間の言うことをきかない猫型ロボットであるソーニャをダメなロボットだとして虐待し捨てた以前の持ち主の方が間違っている。だって猫だから。でも思い通りにならず言うことをきかないロボットでも友達になれる。やはりそれも猫だから。それをドラえもんがソーニャに訴え彼の自我と自由意志を覚醒させ精神的に救います。これまでゲストキャラと友情を築くのはのび太達人間でしたが、ドラえもんがゲストキャラと友情を築くパターンは何気にこれが初なのでは。
なお、主人公が猫(弱者)を救うことで好感度を上げる「Save the Catの法則」という作劇術があるんですが、本作の場合は猫が猫を救う、しかも初期不良のポンコツの方がパーフェクトに改造された方を救うというひねりが加えられていて面白いと思います。

自由意志論 vs 奴隷意思論

そして終盤パラダピアを建設した老いた科学者が現れ、そもそも人間に自由意志があるから諍いや争いが絶えず戦争もなくならない、それなら皆穏やかになるよう洗脳すれば諍いも争いもなくなると自論を展開します。この時科学が潜んでいた場所に住民の私物らしき物が雑多に置かれているのがさりげなく怖く、またパラダピアがやはり私有財産を認めない共産主義的コミュニティであったことが示されます。
この「人間の自由意志なんてロクなもんじゃねえ!」という科学者の主張もまた、先のエラスムスに絡んできます。というのもまさにこのテーマでエラスムスとルターが論争をしており、そのきっかけになったのがトマス・モアからの手紙だったからです。エラスムスはトマス・モアの書簡に触発され、カトリック教会内で古くから議論され続けている自由意志の問題についての著作「自由意志論」を執筆します。

その内容は、人間は楽園から追放され原罪があるが自由意志のもと善を選択することができるので、善行を積み続ければ徐々に道徳的に向上しうるというもの。これに対する反論としてルターは、人間が自由意志に基づいて行動してもロクなことをせずただ罪を犯すだけで、自由意志に基づく努力では神の救済は得られない。人間はただ聖書のみに基づいて神を信じるべきで、神の恩寵と憐れみによって人間は救済されるとする「奴隷意志論」を発表します。初期の宗教改革は人間の知性を重んずるルネサンス人文主義と結びついており、エラスムスとルターも友達だったのに、徐々にルターが先鋭化、過激化し、人間はただ聖書のみ信じそれに基づき行動するべきとの聖書至上主義「聖書のみ」を掲げるようになり、この「自由意思論」と「奴隷意思論」の論争で亀裂は決定的となります。その結果、ルターの宗教改革はカトリックに対抗する宗派「プロテスタント」を産み教会は分裂。エラスムスは双方の融和を唱えましたが、それがどっちつかずの姿勢とされカトリックとプロテスタントの双方から疎まれるようになってしまいました。

このエラスムスとルターの論争を踏まえて「のび太と空の理想郷」を見ると、人間に自由意志があるから諍いや争いが絶えず戦争もなくならないんだから皆穏やかになるよう洗脳すれば諍いも争いもなくなるという科学者の主張はルターの奴隷意思論であり、それに対抗するドラ一行はエラスムスの自由意志論に相当するといえます。また、この論争は奇しくも中国の思想家孟子が唱えた性善説と荀子が唱えた性悪説の対立にも通じます。しかし中国で勝ったのは性善説で、孟子以後は儒教の中心的思想になっていきます。ちなみに孟子が唱えた性善説は「人間の本性は善であり悪は後天的に生ずるもの」という思想で、荀子が唱えた性悪説は「人間の本性は欲望にすぐ負ける弱い悪であり善は後天的な努力により獲得するもの」という思想。そして結果的に「より善を増やして悪に堕ちないように」「善を知り悪の本性を克服できるように」という出発点の違いはあれど「学びが重要」という一致点で融和します。話が逸れますが、欧州は性悪説が勝ってプロテスタントが生まれた世界であり(そして最終的にプロテスタント国家アメリカが建国される)、東アジアは性善説が勝ったのち最終的に融和を実現した世界であるという認識は、東西およびキリスト教世界とそうでない世界とのカルチャーギャップの理解と克服のうえで重要、これを認識しているかどうかで異文化理解がかなり違ってくると思います。

ソーニャの償還

なお、パラダピアを作った科学者は老人で、自分自身の姿は最後 まで見せずに引きこもり、自分のアバターとして三人の「三賢人」というロボットに身代わりをさせていましたが、三賢人という言葉が現在の一般常識的に何を指す言葉かを考えても、やはりそこに西洋(キリスト教世界)と東洋の思想の違いが反映されていたのではと考えてしまいます。
ラストでソーニャがパーフェクトロボットに改造後であるにも関わらずドラ一行との交流により自由意志を取り戻し、その自由意志をもって自分が犠牲になり皆を救うという「善」を選択するという展開はまさに東洋的であり性善説の勝利と取ることができるし、自由意志のもとに他者のために自己犠牲的な行いをするのはキリスト教における「償還」(Redemption)にも相当します。ソーニャの場合は、自分の自由意志を取り戻しパラダピアに囚われていた状態から解放されたという意味の「償還」だったのでしょう。

ちなみにエラスムスの「自由意志論」に影響を与えた人物はもう一人おり、それはヘンリー8世。彼もエラスムスと友達でしたが、やがて彼もカトリックからの離脱を求めるようになり、離婚問題で当時イギリスの大法官だったトマス・モアと対立、その結果トマス・モアは斬首されました。その後イギリスは国王を首長とするイギリス国教会を成立させ、これによりドイツ以北はプロテスタント、南欧はカトリック、イギリスは国教会と分裂し以後お互いが様々な衝突を繰り返すエラスムスが願った世界とは正反対になりました。
なお、エラスムスは旅行中に思いついて一週間で書き上げた「痴愚神礼賛」を執筆中に家に泊めてくれたトマス・モアに捧げますが、この「痴愚神礼賛」とアメリゴ・ヴェスプッチの冒険論文「新世界」に影響されたトマス・モアが執筆したのが「ユートピア」でした。さらにエラスムスは新約聖書のラテン語・ギリシャ語対訳を出版していますが、これに影響されたのがルターで、エラスムスのギリシャ語版新約聖書を底本としてドイツ語版新約聖書を出版。彼らの対訳聖書により聖書を読める人が増えたことにより、皮肉にもルターの宗教改革は加速していきました。当初エラスムスはルターが自分の著作に影響されていたことを知って感激し、彼に励ましの手紙を送ったり彼が不当に教会から断罪されることがないよう手回しをしており、またそれにルターも感謝していましたが、後にどうなったかは前述の通り。かつてみんなルネサンス人文主義のもと自由闊達な交流をしていたのに、宗教上の主義主張と思惑の違いから仲違いし殺し殺される末路をエラスムスはどういう思いで見ていたのでしょうか。しかしこうした諍いが起こるのは人々に自由意志があるからこそ。皆が自身の自由意志のもとに自らそうしたいと思ったことを行った結果てんやわんやが発生する。

東日本大震災的教訓

しかし本作の上手いところは、確かに自由意志は争いや諍い産むが、奴隷意志でも結局悪いことは起こることを見せていることです。ヤケクソになった科学者がパラダピアを自爆させた際、ドラ一行は住人に早く逃げようと非難を促しますが、しかしそれに対し「パーフェクト小学生になれる学校」の先生が「そんなことは(三賢人に)言われていない」と言います。これはもう明らかに東日本大震災の石巻市大川小学校の津波裁判が元ネタでしょう。

大川小学校津波裁判とは、東日本大震災時に学校の裏に山があったにも関わらず、地震発生時に運悪く校長不在で指揮系統が乱れ、また災害マニュアルの用意や日頃からの避難訓練も怠り、教師達の判断と指示の遅さにより児童・教職員計84人が死亡したことに対する遺族による裁判です。当日、校長不在で指揮をとる人がいなかった大川小学校の教師は混乱し、津波到達まで50分以上あったにも関わらず児童全員を校庭に集め点呼を取り、避難するべきか否か、避難するならどこがいいか議論し続け、そしてようやく避難が決まり移動し始めたところで津波に追いつかれ、その結果生き残ったのは児童4人と教師1人のみ。生存者の証言により、当日「早く裏山に逃げよう」と教師に進言する児童もいたのに、教師が耳を貸さず議論を続けていたことが明らかになります。もちろんこの大惨事で一番悪いのは教師。石巻という海辺で地震があり、しかもすぐ側に裏山があったらまずはそこに登るのが常識でしょうが、それを指揮する人がいない、マニュアルがない、避難訓練していないとの理由でしなかったということは、それだけ自分の頭で考えることを怠っていた表れです。
「パーフェクト小学生になれる学校」の先生が「そんなことは言われていない」と言った際に、実は洗脳されたふりをしていた生徒が「自分で考えて!」と言うセリフがありますが、この大川小学校津波裁判が元ネタだとするとムチャクチャ痛烈な皮肉と風刺でしょう。
そしてそのやりとりの直後に、パラダピア住人の酪農家が「自分たちは避難する!でも動物も連れていきたい!」と言いますが、これの元ネタも東日本大震災および福島第一原発事故ではないかと思います。事故による避難の際、家畜はおろペットさえ持ち出しできず置き去りを余儀なくされたから。
なお、大川小学校津波裁判と福島第一原発事故時の動物の置き去り問題はいずれもドキュメンタリー映画になり、しかもどちらも公開時期がこの「のび太と空の理想郷」とほぼ同じだったというこれまた不思議なシンクロニシティがありました。

本作の作品テーマは、先のセリフにもあったとおり「自分で考えろ」なのでしょう。自分の頭で考えることを怠っていると、ふとした心の隙間につけ込まれて簡単に洗脳されたり、最悪の場合は死ぬことだってあるぞ!という教訓を示しているのかもしれません。
その点のび太は勉強嫌い!昼寝好き!スポーツ苦手!射撃とあやとり得意!と好き嫌いと得意・不得意がはっきりしていて、日常のルーティンに埋没し思考停止する以前に日常のルーティンすら満足にこなせてないんだからそりゃ洗脳に強いでしょう。それを考えると、集団の中で浮いていたり空気が読めなかったりといった「異質な奴」はある種の「ブレーキ」的な役割を果たしているとも考えられます。

それにしてもドラえもん映画は毎回いろいろなところからネタを持ってきますが、まさかルネサンス人文主義を持ってくるとは思いませんでした。クトゥルフ神話を持ってきた「南極カチコチ大冒険」も凄かったですが、ルネサンス人文主義が分かる幼稚園児や小学生なんていないでしょう。劇中でも小学生でトマス・モアの「ユートピア」を読んでいる出木杉は早熟が過ぎると思います。それとも現在の超絶エリート小学生なら読んでいるもんなんでしょうか?
ちなみに私が読んだのは高校2年でした。


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