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おにぎりの味見

寒い日が続いている。私は体の芯まで冷え切った時にはきまって「ああ、おばあちゃんの粕汁食べたいな。」と亡くなった祖母の料理の味を思い出すのである。

祖母はせっかちな人だった。電話をすると単語を言い終わる前に電話を切られてしまっていた。「今日のお昼に行くからね。じゃ…」ここで祖母は電話を切る。最後の「じゃあね」や「ばいばい」を言わせてくれないのである。最後に重要な事を話そうとしていたのに電話を切られてしまって、かけ直さなくてはならないことを一度や二度ではなかった。

そんな祖母は数年前に肺癌で亡くなった。病気になる前は、買い物の時に目的地に到着すると一番に下車するのは祖母で、母と私は後を追いかけていた。しかし病気が進行してからは、休み休み歩くことしか出来なくなっていた。今までのように早く歩きたいという気持ちと思うようにいかない身体との釣り合いが取れていないようだった。前までは祖母を追いかけるように急いで車の鍵を掛けていた母が、不自然なほどゆっくりと鍵を掛けている。私は歩幅を調節しながら不自然に見えないように注意して歩く。隣にいる祖母はいつの間にかとても小さくなっていた。

「もう祖母の料理が食べられないのか。」祖母の葬式でお焼香をしながらそんなことを考えた。こんな時にも食べ物のことか、と自分自身に少し呆れながらも、思い出を偲ぶ気持ちと一緒になって祖母の料理の味が蘇ってくるのである。

いつもはせっかちでせわしなく動き回っているのに、料理の時には丁寧に食材を扱いながら下処理をしたり煮物をじっくり煮込む姿が印象的だった。手間暇のかかった祖母の料理はとても優しい味で、普段は苦手なものでも自然と食べていた。幼い頃の私はそれが魔法のように感じられて、よくしわしわの手をじっと覗き込んでいた。そんな時、「味見してくれる?」と小さな丸いおにぎりを作って味見させてくれた。今考えてみると、おにぎりに味見は必要なかっただろうし、私はただ「美味しい。」としか言っていなかったと思う。しかし、その頃の私はお手伝いをしたのだという誇らしい気持ちでおにぎりをほおばっていた。そんな私の顔を見つめる祖母の表情を今でも鮮明に覚えている。

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