寒い日が続いている。私は体の芯まで冷え切った時にはきまって「ああ、おばあちゃんの粕汁食べたいな。」と亡くなった祖母の料理の味を思い出すのである。 祖母はせっかちな人だった。電話をすると単語を言い終わる前に電話を切られてしまっていた。「今日のお昼に行くからね。じゃ…」ここで祖母は電話を切る。最後の「じゃあね」や「ばいばい」を言わせてくれないのである。最後に重要な事を話そうとしていたのに電話を切られてしまって、かけ直さなくてはならないことを一度や二度ではなかった。 そんな祖母
はじめにふるさとの歌詞「うさぎ追いし」を「うさぎ美味し」だと思っていた頃がありました。 自慢ではありませんが、私はそういう勘違いが多い方です。今回はその勘違いの一つを取り上げてみます。 ふこふこふこふこ(ふわふわ)なものが好きです。 小学校低学年の頃、国語のテストで「ふ〇ふ〇な犬」とイラスト付きの文字を埋める問題がありました。 正解はもちろん「ふわふわな犬」で、「わ」と書くべきだったのですが私は自信満々に「こ」の字を書きこみました。 国語は得意分野だったので今回のテ
音楽は行為だ。習慣だ。耳を澄ませばそこにいつも音楽が満ちている。 フィボナッチ数列「巻貝見つけた。フィボナッチ数列だね」 音楽を外に連れ出そうとしている風間塵の言葉。 気になって調べてみると、フィボナッチ数列は「2つ前の項と1つ前の項を足し合わせていくことでできる数列」だということが分かった。この数列はひまわりの種の並びや巻貝のうずまきなど自然界の多くのものに見られ、黄金比にも関係しているらしい。数学と自然が繋がっていることを不思議で美しいと思った。 本来、人間は自然
自分に起こった危機、自分に起こった恐怖、それを語る権利を、アイは得たかったのだ。そして後に、そんな権利を得ようと思った自分を、この上なく恥じ、軽蔑したのだ。 愛があるかどうか苦しんでいる人にどうやって声をかければいいのだろう。 例えば、病気の人に対して、その病気を経験したことのない自分がその人の気持ちをどれだけ理解出来ているのか。 「経験していない人に気持ちは分からない」 と言われると返す言葉もない。だからといって、声をかけなかったり知らないフリをするのは違う。「じゃ
はじめに最近友人の家に遊びに行った時の出来事を呟きます。 クスッとしていただければ幸いです。 〇月✕日 午前11時頃友人(便宜的に友人をS子とします)は料理が好きで、 お家に遊びに行くと手作りのお菓子をよく出してくれるようなナチュラル系女子です。 S子に関する補足: 「爪が息できない!」と言ってマニキュアをしていない。 でも、髪はブリーチしている、不思議。 その日はパンを焼いてくれたらしく、 S子の家にお呼ばれしたもう1人の友人(M子)と私はルンルンでした。
はじめに「これ、かわいい!」 と、ほぼ毎日口にしている気がする。 「かわいい」を否定しているのではなくて、 どう「かわいい」のかをちゃんと言葉にする術も持っておきたい。 そのために、言葉を選んで文章を書く習慣をつけよう と思ったのがnoteを始めようと思ったきっかけです。 たった数行でもこのたった数行の「はじめに」を書くのでも ちょっとした助詞や句読点とか、口に「する」のか「出す」のかなど 自分で選ぶと頭をつかいます。 それに、書く目線に立ってみると他の人の