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#2.あの日から10年 〜わたしには伝えるしかできなかった。役目とはいえ情けない。〜


「粟津アナは震災の年に入社したんですか。それは大変でしたね。」


何度この言葉をかけられただろう。
確かに大変だったかもしれない。普通の年ではなかったから。

でも、もっともっと大変な人たちがいたのだから、わたしなんて大変のうちに入らない。
それなのに、こんなわたしでも辛くて辛くて毎年涙が出るのだ。
被災された方、失ったものがあまりにも大きすぎる方は、毎年どんな思いで過ごしているか想像に難くない。


2011年3月11日東日本大震災。
当時わたしはまだ大学4年生で、春休み中だった。
すでに入社前のアナウンス研修が始まっていて、きたる社会人生活に向けてワクワクドキドキ胸躍らせていたころだ。
「視聴者に安心感を届けられるアナウンサーになるぞ!」
そんな未来への希望を抱きながら、共に入社する同期と一緒に研修に臨んでいた。

午後2時46分。
5階奥にある第五会議室でニュース読みの研修を受けていると、突然建物が揺れた。

ガタガタガタ!

あ、地震だ。

「こんなふうに地震が起きたら、アナウンス部員はすぐに情報センターに行きます。」

上司からそう教えてもらったわたしたちは、建物が揺れ始める中、情報センターへと向かおうと立ち上がった。
情報センターとは、テレビニューススタジオ、ラジオニュースブース、報道フロア、気象台、各番組の編集作業場が一同に集まる広いフロアのことだ。

歩き始めようとすると、あれよあれよという間に揺れが大きくなっていく。
なぜかその時は、地震が起きたことよりも、せっかくアナウンサーらしいことを教えてもらったんだから忠実に守りたい、という思いが先行して、「早く情報センターに行かないと」なんて悠長なことを思っていた。
会議室を出て、よろよろと歩きながら階段の踊り場に着いた瞬間、これまでに感じたことのない大きな揺れに襲われた。

ゴゴゴゴォー!!!

大きな音をたてて揺れる建物。
視界が定まらなくなってくる。
なんだなんだ、大きいぞ。
1分ほどたっても、一向に揺れが収まる気配はなく、それどころか、さらにもう一段階揺れが大きくなったのだ。
歩くことはおろか、その場に立っていることさえできなくなるほどの激しい揺れ。
このままでは天井が落ちてくる!
建物が壊れる!
冗談じゃなく、この世の終わりかと思うほどの激しさだ。たまらず、一緒にいた同期と階段で寄り合う。

長過ぎる揺れは、2〜3分ほど続いただろうか。
ただただ現状を飲み込めないまま、身体が揺さぶられ続けた。
これが現実なのかどうか本当にわからなくなったのは、後にも先にもあの日しかない。


揺れが落ち着き、なんとか情報センターについた時には、すでに報道フロアがバタバタしていて、同じように社内から集まってきた人たちで溢れ返っていた。
どうしたら良いんだろうと焦ったところで、わたしたち新人には何もできることがなく、結局その日は街中が停電で真っ暗な中、自宅マンションへと帰ることになった。
マンションに着くと、何人かの住人がエントランスに避難していて、不安だったわたしもそこで1人一夜を過ごすことにした。

誰かが流してくれていたラジオの音だけが、エントランスに響いていた。その情報に耳を傾けながら体育座りする。
目を閉じながらうつらうつらとするものの、凍えそうな寒さと漠然とした不安で全く眠れない。
深夜、ラジオから信じられない言葉が流れてくる。

「若林区の荒浜で、200人ほどの遺体が見られるということです。」

なんだって?
耳を疑うような情報に理解が追いつかなかったが、とてつもないことが起こってしまったと直感的に思った。
もはや、入社前研修どころではない。
そんなことやっている場合ではなくなってしまったのだ。
希望や期待に胸膨らむ未来が、一瞬で消え去る。
かわりに、あまりにも無情な現実が待っていた。


震災翌日から先輩のアナウンサーたちは、即席で作られたシフトで生放送をかわるがわる担当していた。
ラジオブースを横目に、わたしたち入社予定者は放送のお手伝い業務を担当することになった。

当たり前だが、入社前の会社なので、知っている人はほとんどいない。
本来ならば会う人会う人皆に、「来月から入社予定の粟津ちひろです」とにこやかに挨拶するはずが、もちろんそんなことできる雰囲気は1ミリもなく、流れ作業で挨拶をすませ、どこの部署の誰と作業しているかもわからないまま、もくもくと作業をしなければならない。
それがまた、地味に悲しい。

わたしたちがする作業のメインは、安否確認メールの仕分け作業。
停電で見ることができないテレビより、乾電池1つで聴けるラジオは、災害報道に強い。
それゆえ、とにかくものすごい量のメールが送られてくるのだ。

「〇〇市の△△です。こちらは無事です。」
「〜さん、今どこでしょうか。連絡ください。」

そういった内容のメールを、県内のエリアごとに仕分けしながら、読み手がすぐに読めるように市区町村にルビをふったり、言いやすい言葉に書き換えていく作業をしていた。

こんなに多くの人が不安な気持ちで、誰かを探しているんだ。伝えたいんだ。

何百とあるメールに目を通し、綴られているリアルな叫びに、ぎゅっと胸が痛む。
しかし、手を止めて落ち込む時間さえも許されない。そんな時間あるなら、この膨大な量のメールを、1人でも多くの思いを、届けねばならない。
1分1秒が冷たく過ぎていく。
ホッと一息つける時間もまま、悲痛な叫びと延々と向き合い続けなければいけないことと、
周りを見渡せば初めて会う人ばかりの中での作業に、思った以上に神経がすり減っていく一方だった。


ちょうどその頃、個人間の携帯電話でも様々なメールが出回っていた。
福島の原発関連の情報や空気汚染の注意喚起などで、文章の最後には「この情報を、1人でも多くの人にメールで回してください。」と書かれていて、きっちり信じた人から律儀に送られてくるのだった。
すべて真偽不明のものばかりだったが、無駄に恐怖感を煽られる。


それ以上に、わたしのもとには多くの安否確認メールが届いていた。
何も情報がない中、藁をも掴む思いで必死で知人に送っているのだろう。
最初こそしっかり読んでいたが、会社でも同じようなメールを何通も見続けているため、なんだか感覚が麻痺してしまっていた。
時間が経てば経つほど、また安否確認メールか…と思いながら、本文をパッと流し読みするだけになっていた。

震災発生から4・5日たった頃だろうか。
いつものように個人携帯に送られてきた1通の安否確認メールがふと気になったのだ。
宮城県内の女子大学生の安否確認。
宛先にいくつものアドレスが記載されていて、何人にも同時送信されいていたのがわかる。

「〇〇大学2年生鈴木由希子さん(仮名)と連絡が取れません。家は名取市閖上。今どこにいるのかわかりません。もし情報を知っている方は教えて下さい。ささいなことでも構いません。拡散のご協力をお願いします。」


大学2年生か。
わたしと年齢が2つしか変わらないな。
大丈夫かな、避難所にいるのかな。

そんなことを思いながら、携帯を閉じた。
日々の生活でエネルギーを消費していたわたしは、きっと誰かが皆に回しているだろう、そう思って、このメールを回さなかったのだ。

その4ヶ月後に、思わぬ形で、鈴木さんの現状を知ることになった。


震災から3週間後。
4月1日にアナウンサーとして無事に入社。
まだガスが復旧しておらず、あたたかいお風呂に浸かれないまま入社式を迎えた。

4月下旬に初鳴きを終えたあとは、被災地に足を運んで取材をしたし、復興イベントにも参加した。
悲しさや虚しさと常に隣り合わせだったけれど、無我夢中で仕事することでいっぱいいっぱいだったと思う。


月日は流れ、7月も終わりに近づいた頃。
この頃にはニュース読みも段々慣れてきて、わたしたち新人がほぼ毎日のニュースを担当していた。
扱うニュースは日々震災関連だらけで、ほとんどが心痛むものばかりだった。

その日も定時ニュース担当で、原稿の下読みをしていた。
震災で亡くなった県内の大学生の慰霊祭が行われた、というニュースだった。
そっか…と思いながら原稿を読み進めていくと、ふと、そこに書かれてある名前に目を奪われる。
胸のあたりが、ズキンと激しく痛んだ。

わたしはこの人を知っている。
いや、正確に言うと、はっきりと覚えている。

その名前は、紛れもなく、鈴木由希子さんだったのだ。

わたしの携帯にまでメールが回ってきた、あの女子大学生だ。
顔は知らないけれど、大学2年生であるとか、閖上に住んでいるとか、それだけは知っている、あの女子大学生。


だめだったんだ。


その瞬間、椅子から崩れ落ちそうになった。
呆然とした。
あのメールの裏で、こんな冷酷な現実が起きていたなんて。
言葉にならないもどかしさが体中を駆け巡っていく。
震災のむごさを身体全体で感じた。
 

何もこんな形で、この名前と再会しなくったっていいじゃないか。

わたしがメールを回していれば、未来は違ったんだろうか。

なぜ、なぜ彼女が巻き込まれたんだろう。

どうしようもない、やりきれない気持ちを抱えたまま、ニュース原稿を読んだ。
しっかりと伝えることしか、わたしにはできない。
いくら役目とはいえ、情けなかった。



あれから10年が経つ。
毎年、どんなふうに過ごしたらいいかわからない3月11日。
追悼式は被災各地で行われるし、テレビ・ラジオからは必ず震災関連の番組が聞こえてくるけれど、思いを馳せたいときもあれば、辛くて目を背けたいときだってある。
正解なんて、なに1つない、3月11日。
誰かに強要することなく、それぞれがそれぞれの過ごし方で3.11と向き合う。
きっとそれで良いのだと思う。


あの日ニュースで伝えた鈴木さんは、体育教師になりたかったそうだ。

今生きている者として、せめて、未来に夢を託すような生き方をしていきたい。
しっかりと胸を張って、今を生きていきたい。

そう強く思うのである。

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