車椅子ユーザーJリーグ観戦記【はじめに】

今でこそ、車椅子でアウェイ遠征も行っちゃうサポーターですが、そんな私も最初はサッカーのサの字も知らない訳でして。
先ずはフロンターレ沼にハマる迄と、病気で一旦サッカー観戦はもう無理と諦めたところから、車椅子で等々力復帰、シーチケ復帰、遠征チャレンジに至るまでをまとめてみました。

私が初めてサッカー観戦に行ったのは小学校の頃。
小学校の担任がサッカー部出身で、高校サッカーの決勝?か何かに連れて行かれたのがスタート地点。
場所は国立競技場で、「うーつーむくなよー振り向くなよー」のアレをこの日の為に授業を潰して振り付きで覚えさせられました。
勿論、それを披露する機会等あるわけもなく、「足を出すんだよー!」と口汚く罵る担任の側で、お小遣いから奮発して買ったカップヌードルを啜っていた記憶しかありません。
冬の国立競技場はとても寒く、カップヌードルのスープが胃に沁みました。

時は経ち高校の頃、同級生が高校サッカーにどハマりしていました。
毎日スポーツ新聞を買い雑誌も買って、クラス中をぐるぐる回覧。
ジャニーズにハマってる子もいたし色々だったけど、「それぞれの推し」を回覧する習慣があって、仲良い子が大榎克己と向島健にハマっていて、よく記事が回って来て、小学校時代の暗黒の思い出と合わさって、記憶の中に蓄積されていきました。

そして1997年、川崎に住んで2年目のある日
「こんなの貰ったから行かない?」
と誘われたのが、川崎フロンターレとの出会い。
確かチラシを切り取って持って行くシステムだった気がする(朧げ)。
当時川崎にはヴェルディがいました。
ヴェルディが強くて人気あるのは知ってたけど、そんなにサッカーに興味はなくて、「川崎フロンターレ」とは?という感じ。
でも天気も良いし、無料だし、自転車で直ぐだからまぁ行ってみようかと等々力へ。

しっかり試合を観たのはこの時が初めてでした。
川崎フロンターレは出来たばかりで、所属はJFL。Jリーグとは違うらしい。
ふーんと思いながらバックスタンドの真ん中辺りに座りました(ガラガラなのでどこでも座れた)。
ルールもあやふやだったけど、出場者の中に「向島健」の文字を見つけて「お!」となりました。
高校時代ヘビーに回覧されて来た高校サッカーの記事でよく見た名前。
この人知ってる!
背番号で向島選手を特定し、向島選手を追って試合を観ました。

この試合が俗にいう「バカ試合」。
バッカンバッカン点が入る。
サッカー初心者には、展開が分かりやすくて面白かったし、GKが凄くカッコよく見えました。
浦上選手というらしい。
90分は割とあっという間でした。

え、結構面白いかも。
近所だし回数券買えば安いし、ちょっと買ってみようか。
回数券は遊園地の乗り物1回券みたいなので、ピリピリ切り取って渡すシステムだった記憶。
友達に切り取って渡せば一緒に観れて、それも気楽で良かったんです。
そんな感じで等々力にゆるゆると通い始めました。

翌年フロンターレはJ2に所属し、J1を目指しました。
フロンターレは強く、ルールは曖昧なままだけど、応援は楽しくもありました。
でもこの頃は応援仲間っぽい人はまだいなくて、噂に聞いて多摩川の練習場にも行ってはみて、よく見る人はいるなぁという程度。
そして、運命の入替戦の日がやって来ます。

博多の悲劇

J1には上がれませんでした。

悔しかった。
悔しかった。
悔しかった。

俄然J1に上がりたい思いが強くなりました。
もっと応援したくなりました。
この頃、コールリーダーのグループで揉め事の様な事があり、コールリーダー不在の時が一瞬あった気がします。

元のグループには入ってなかったし、新しいグループにも結果入らないのですが、その一歩外側でそこはかとなく顔見知りだった人達と、当時盛んだったBBS掲示板を通して話しをする様になり、それぞれがHPを作ってフロンターレを応援している事を知り、練習場見学や等々力で話しをする様になり、一緒に地方遠征などにも行く様になります。

元々旅は好きだったので、「応援」という名目つかなければおそらく行かなかったであろう所に行くのが純粋に楽しかったし、お金がないので乗用車を持ち寄って分乗したり、高速バスとレンタカーを組み合わせたり、そんな道中の楽しさをHPで綴って応援してくれる人が増えたら良いなぁとか思っていました。

等々力に1万人入場するのが当時の目標だった位、フロンターレは知られていないチームでした。
1万人突破出来た!でお祭り騒ぎになったりして、チームは順調に勝ち進み、とうとうJ1昇格を果たします。

そして暗黒の2000年。
恐らく5月のゴールデンウィーク過ぎには「降格」を覚悟できてました。
まぁ色んな事情もあっただろうけど、圧倒的にどうにもならない「修行僧の気持ち(多分)」の1年を過ごし、フロンターレは全てを作り直し仕切り直す事となります。

既にフロンターレは生活の一部になっていて、等々力には通っていましたが、生活の拠点が移る等があり練習場や遠征には行けなくなったりしながら、付かず離れずの距離でのお付き合い。

そんな中憲剛が日本代表から外れ、また応援スイッチが入った頃に病気になりました。
アレ?と思ってから歩けなくなるまでがあっという間で。
病名も診断がなかなかつかず、でも生活はして行かなければならなず。
生きて行くのに精一杯で、等々力はもう無理だなと一旦観戦を諦めます。

検査に次ぐ検査で通院しつつ眺めるSNS。
Twitterで試合中看板を蹴ってしまった選手がいて、サポーターが慌てて看板スポンサー様のお菓子を買い漁り、ハッシュタグをつけて画像ツイートしお詫びの気持ちを伝えるムーブが起こっていて、「私もコレなら参加できる!」とお菓子を買って来て画像UP。
こういう応援の仕方もあるじゃないかと思ったキッカケが #フロサポお詫びのカルビー でした。

遠くからだけど、SNSで推していこう。それで良いじゃない。
そう自分を納得させました。

半年以上かかったけれど、確定診断が出て病名が分かり、やっと対処療法から治療に進む事が出来ました。
病名が確定する事で、公的な制度も使えるようになり(介護保険適応疾患)、母のお下がりの車椅子を騙し騙し使っていたのが、自分用の車椅子をレンタル出来ることになり、治療で若干なら伝い歩き程度は出来るようになれました。

車椅子でも働ける職場を探し、暮らしを立て直し…とやっている頃に、小林悠選手の移籍の噂。
シーズン終盤で、直接小林選手に思いを伝える機会が殆ど無く、でも何もしないなんて出来るわけもなく。
どうしたら…と悩んだフロサポが考え出したのが #フロサポあんのパン祭り
川崎中のあんぱんを買い漁って、悠に思いを伝えよう!と(小林悠選手のチャントがあんパンマンマーチ)。
当時イトーヨーカドー武蔵小杉店の店長だった西川さんが思いを汲んで下さり、イトーヨーカドーに大量のあんパンが入荷され、それをフロサポが買い尽くす祭りが始まります。

あんパンが幾ら売れても、小林悠選手にもフロンターレにも1円の収入にもなりはしないのです。
それは充分わかってる上で、小林悠選手の気持ちはどうにも出来ないけど、熱い思いは伝えたいというムーブはどんどん盛り上がり、お店に置かれたあんパンメーターはぐんぐん数字を伸ばして行きます。
私も自宅付近であんパンを買ってましたが、どうしてもあんパンメーターを回してみたくなって来ました。
等々力は無理でも、武蔵小杉のイトーヨーカドー迄ならいけるんじゃね?という思いが募り、思い切って行ってみました。
そこで西川店長に出会い、何度かイトーヨーカドーに足を運ぶうちに、そこに来ているサポーターと知り合い、残留を決意してくれた小林悠選手のブログで一緒に嬉し泣きをして、サポーター仲間が「手伝うから一緒に等々力に行こう」と誘って下さり、等々力復帰を果たします。

車椅子利用になってから既に電車通勤はしていたので、健常の頃とは全く違う日常に少しずつ馴染んで来てはいましたが、いざサッカー観戦復帰となると、そのハードルは一段と高くなっていて、それをいちいち再認識して行く事になります。

病気の治療で免疫力を下げているので、少しの事で直ぐ熱が出たり腫れたり膿んだりしちゃうので、体調の変化にはそれまで以上に気をつけるようになりました。
電動車椅子なのでバッテリーにも限りがあって動ける距離も無限ではないから、移動距離も計算しないといけません。

等々力は通ううちに勝手が分かって来たので、欲が出て来ました。
近くならアウェイ行けるんじゃね?
アウェイ行く前に、先ず相手チームのHPを見てアクセス方法等調べるんですが、足りないんです。情報が。圧倒的に。

チームに問合せるのは、まぁ毎回です。
車椅子で駐車場使う場合問合せが必須なのはまぁ分かりますが、私は運転免許は持ってるけど車持ってないし、器具ないと運転出来ないので、公共交通機関で行くんですが、それでも問合せしなきゃ分からない事が毎回出てくるんですよね。

他の車椅子利用者も同じ思いをしてるんじゃないかな?
だとしたら、車椅子本人目線で観戦に行く移動手段を書いたら、次に遠征考える人の参考になるかもしれないなと思って、まとめてみようと思いました。

バリアフリー事情は日々変わっていきますので、遠征年月を記載して、再度行った際変わった事があれば追記していこうかと思います。

次回は先ず、ホーム等々力からはじめてみようと思います。

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