自分の言葉と他人の言葉
私たちは、言葉を紡いで生きている。
でもその言葉は、自分の言葉だろうか。
言葉は、思考のアウトプットでもある。
言葉になり、文字になり、視覚化されたとき、私たちはそれを受け取ることができる。
その時その言葉に埋め込まれた種を受け取るということだ。
あなたはこうだよね、という何気ない一言に傷ついたことはないだろうか。
同じことを言われたくないという気持ちが、行動を変えさせる。
逆に、言われて嬉しかったことに心を縛られていないだろうか。
同じことを言われたくて、その言葉を引き出した時と同じ経験を起こそうとする。
そんな風に私たちは、他人の言葉を生きている。
他人の言葉は呪いだ。
小さな種子が、消えない思い込みを奥深くまで根付かせる力を持つ。
あなたは美しい、という言葉は、その言葉を与える人にとっては褒め言葉だ。
だが同時に、「醜い」を生み、美しいと言われた人に快楽を与え、その快楽は美しくありたいという執着を生み、同時に醜さへの恐怖や不安の種を植え付ける。
こうした二元性の対立概念は、ヨガ哲学では、ドゥッカ(不快)、スッカ(快楽)と呼ぶ。
言葉になるということは、概念化されるということ。
言葉が発せられた瞬間に、ドゥッカとスッカが生まれ、クレーシャ(苦)を生じる。
私は自分の言葉を話したい。
それが自分の言葉なのかどうかは、体が教えてくれる。
言葉の持つ響きが、その振動が、自分の真実の宿った言葉なのかどうかを教えてくれる。
そこにはマインドの入り込む余地はない。
体の感覚を信頼すればいい。
自分の言葉を話しているとき、その音の振動は、肉体を内臓から癒す力を持つ。
癒し(heal)の語源は全体性(whole)だという。
相反する概念は、一方を忌み嫌う性質がある。
美しいという概念をスッカ(快)とすると、その瞬間に醜いはドゥッカ(不快)となる。
そして、美しいという快楽に執着すると、醜いを切り捨ててしまう。
もし、自分を醜いと感じたら、自分をいらない、不要な、無価値な存在だという呪いになる。
でも美醜は本来 区別できるものではない。
そこにある価値判断は時や場所によって、人によって変わるものだ。
顔の美しさも同じだ。万人にとって共通の美しい顔などない。
顔の美しさは表情が作る。表情を作るのは、マインドであり、体(内臓)だ。
もし醜いというドゥッカに捕まり、クレーシャの中にあるなら、美醜を一つのこととして捉え直すことができたとき、癒しが起こる。
それがありのままということ。
他人の言葉は、向こう側半分を切り捨てる。
自分の言葉は、全体性を持つ。
自分の言葉を話そう。
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