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夢と幸福論

「かなえたい夢」
その言葉をかみしめた

「#かなえたい夢」という投稿企画を見かけたので書いてみようと思う。

 私にも夢があった。最初は電車の運転士。次は小説家。その次は写真家。そして今ライターをしている。 今の私に夢はあるのか?そう問いかけると漠然とした理想だけが浮かんだ。

「美しい終わりを迎えること」

 これが私の夢だ。

 少し話はそれるが、「夢」が志や抱負という意味合いを持つようになったのは明治時代「dream」という英単語が入ってきたときに「夢」として訳したのが始まりだとか。個人的にもすべて「夢」の一文字で片づけるのはしっくりこない。とはいえ今回はテーマ通りに語っていこう。

 そもそも、なぜ人は夢を抱くのかを考えてみる。私の場合は憧れだった。度々話してきた私のバイブル的小説「三日間の幸福」の主人公達に憧れた。終わりをとても幸せそうに受け入れた彼らに憧れたのだ。
 夢とその理由は様々だと思う。ただ、夢を追うことで、あるいは叶えることで幸福になれるのかは重要な要素だと考えられる。

 夢を追うことが幸福につながるのか?夢を叶えることは幸福なのか?この記事を書きながら考えてみた。その時に頭に浮かんだのが偉人とその最後だ。
 伝記を書かれるような、大きな夢を追い、偉業を成し遂げた人たち。彼らの夢、幸福、その最後に考えをめぐらせた。
 偉人と呼ばれる人たちはなぜ夢を追ったのか?本当に一個人としての夢だったのか?どこまで本気で理想を語ったのか?夢を追い、偉業を成し遂げた先に幸福は待っていたのだろうか?疑問は尽きない。

 そして度々考えるのが、「最後の時、何を思っていたのか?」という事だ。
 私は終わりを重視している。偉人には不本意だろう最後を迎えた人も多い。古今東西、多くの偉人が悲しい最後を迎えている。
 彼らの伝記を読んで考えた事がある。それは一個人には限界があるという事だ。真の意味で万能の天才は存在しないと感じる。偉人と呼ばれる人たちは私よりはるかに優れていたし、実績を残しているが、失敗も多い。
 時にはそれが文字通り命取りとなってしまった事もある。そんな話を聞くたびに、大きすぎる夢とその代償について考えてしまう。
 
 私が思うに、人は身の丈にあった夢を持つべきだ。大きすぎる理想は代償を求めてくる。一個人として幸福に生きたいのであれば、夢はほどほどにすべきだと思う。

 それでも、理想に殉ずることが出来た人こそ、偉人になれるのだろうが・・・

 私の夢も、身の丈にあっているのか分からない。代償もそれなりにありそうだ。それでも夢を叶えるためにも、日々を精一杯生きてゆく。
 そして、笑って最後の時を迎えられたら良いな。と思った。


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TANOSHIKA 地平線
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