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たぶん、わたしのはなし。 Vol.1 「テレパシーで交信できないなら、face to faceでいくしかないのだ」 

シャワーを浴び終わり、髪を乾かそうと思ったら、「あと2分50秒で2024年だよ!」とリビングから声がして、あわてて家族のもとに向かった。濡れた髪のまま、一応手拍子しながら、カウントダウンする。特におめでたい感じでもなく、なんとなく2024年が始まった。正直日付が変わるだけじゃんとも思う。

2023年の私は多分、今まで生きてきた中で一番忙しかったと思う。仕事して、生活して、学校行って、課題して、自主制作して、イベントに参加して。特にイベントについては、自分の想像以上に機会を多くいただけたこともあり、その分タフだったけど、かなり、めちゃくちゃ楽しかった。いろんな作品や作家さん方に出会い、自分自身何が良くて、何が楽しいと思えるのか、そしてこれからどういう風につくっていくか。だいぶ整理整頓できてきたと思う。

人の前に立つ機会が増えた分、作品を見ていただいたり、手にとっていただくことも、前の年に比べて多かった。やっぱり見てもらって、言葉をもらうのは、嬉しいし、励みにもなるし、ありがたい。

私の作品は、『感情的』、『殴りかかってくる、あるいは、えぐるような感じ』、『ちょっぴり猟奇的な感じ』『ストレートさ』、『素直さ』があるみたいで、「それがとてもいいね」と褒めていただくことが結構ある。あとは私の印象と作品にギャップがあるんだとか。「もっと破天荒な感じかと思いましたけど、大人しそうな方ですね」とか「大人しそうな方だと思ってたけど、作品を見て驚きました」など。

私はそういう感想をいただけて、素直にとても嬉しい。そして、自分の持ち味だと自覚しているので、これからもそういうものを描いたり、書いたり、詠んだりするつもりだ。

でも、なんで、私と私の作品に、そんなギャップが生まれているのかな?
少し考えてみた。

それは多分、私が「権威」を目の前にすると、萎縮して、ヘラヘラとしてしまっているから。
「うっわ。え?なになに?どういうこと?それって大丈夫そ?」っていう行動や発言を目の前にした時、一旦受け入れて、その後も何故か受け入れ続ける。「この程度のこと、私が我慢すればいい」と条件反射で思うようになっているのだ。さらに、これは私の悪いところだと思うんだけど「その意味わからん行動や発言を、受け入れられる器が私にはある。私は強い、大丈夫。もしその器がないとしたら、私の能力が低いってことだ」という大変におかしな思考回路を持っていたのだ。なんでこういう思考になっちゃったか、それを書き始めると長くなってしまうので、それはまた別の機会に。

とにもかくにも、私は、我慢して、我慢して、我慢する。でもそれが悔しくて、悔しくて、悔しいから、作品に全部押し込んでいるんだと思う。たまに作品に「上手に」詰められないこともある。消化不良になって、私の体の中でぎゅうぎゅうに、パンパンに膨らんで、爆発してしまう。これって、表現者あるあるかなと思うけど、そうじゃなくても同じような人、案外いると思う。

私は忍耐するのが得意な方だと思うけど、忍耐は決して偉いことじゃないと思います。
社会に出て、いろんな人と知りあって思うけど、本当にそう思う。
特に、人やコミュニケーションにおける忍耐は、自分のためにも、相手のためにも、もっと言うと社会のためになりません。
全然ヘルシーじゃない。
すごくしんどいよね。

「それは流石におかしいと思うので、私はやりたくないです」
「私のことを傷つける、そういう嫌なことをしないでほしい」
「そういう発言はやめてください」
「私だって、嫌なものは嫌だよ」
然るべきタイミングで上手に伝えてきたら、もう少し楽に生きれただろうし、もっと良い環境をつくれたかな。

私の短歌で「話すほど離れてしまう気がするからテレパシーで送っとくねピピ」という歌がある。この短歌は、傷つくことをおそれる、もどかしい恋心みたいなものをイメージして詠んでいる。だから、ありとあらゆる事象に万能な短歌ではないのが前提だし、何よりこの短歌が自分でとても気に入っている。とても好きだ。

けれど、この短歌を詠んでから、2年ほど経ち、思うこと。

それは、面と向かって、face to faceで、伝えなければいけない時があるということだ。超当たり前の話で恥ずかしいが、話さないと伝わるものも伝わらない。傷つくことをおそれて、衝突から逃げてはいけない。「大人なんだし、このくらい察してほしいな…」が全然伝わらない相手は、五万といるし、そもそも私の当たり前は、あなたの当たり前ではない。

直接がベストだと思うけど、オンラインでも、音声でもいいし、テキストでもいい。今は、完璧なface to faceじゃなくても、ネオface to faceでコミュニケーションをとる術がたくさんある。それに得意不得意もあると思うから。

それに案外、私のめんどくさい話を真剣に聞いてくれる人もいるし、話してみて気づいたけど、意外と私の話はめんどくさくなかったりする。不透明だった相手の考え方が透明になり、議論する余地が生まれる。自分の思い込みが、自分をがんじがらめにしていることだってあるんだ、と。
私、我慢し続けなくてよかったんだ。
とても驚いた。

2023年は、それに気づかせてくれた人たちに、出会うことができた。とてもありがたいことで、名前を列挙したいくらいなんだけど、迷惑をかけちゃうかもしれないし、恥ずかしい。それに、きっとこれを読んだら自分だと気づいてくれると思う。ありがとう。

今までうまくいかなかった仕事や生活、リレーションシップ、言われて嫌だったことや傷ついたこと、それら全部はうまく受け流せなかった自分のせいだと決めつけてきたし、その度に自尊心がすり減ってきたけど、それは間違っていました。「忍耐しきれなかった私」が悪いのではなく、face to faceのコミュニケーションから逃げて、テレパシーでなんでもかんでも伝わればいいな、汲み取ってほしいなと思っていたこと自体が、少なからず良くなかったんだと思う。そして、face to faceを尊重してくれる環境や、コミュニティ、相手を選べなかったこと。簡単なことすぎて、馬鹿馬鹿しいかもしれないけれど、そうなのだ。

「私とface to faceする気がない人は、知りませんっ!」
ゆっくりでもいいので、そんな強さを持ち合わせて、今年からは生きていきたいなと思う。
その強さは、私と、私の作品と、私の大切な人たちを守るために、必要なことだから。

#note書き初め


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