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死にたいが言えるだけよかった

いつか、死にたいさえも言えなくなったらどうしよう。だんだんと、助けを求めることさえも億劫になってきちゃった。必死のSOSだって誰かに届ける気にはなれなくて、ただTLに放つことしかできない。助けてほしいと、未来を見たいと思えるほどの気力がもう残っていない。死にたい辛いしんどいといった感情は何をしていても抜けないのに、もう全部どうでもよくなってしまった。

自分ひとりで解決すればいいだけなのに、わざわざ他人に救ってもらおうだなんて傲慢にもほどがある。それに、人は救いだけでは生きていけないから。一度助けてもらったって、どうせ自分はまた壊れる。だから誰にも告げず、自分で抱える方がよっぽどいい。

心を閉ざしたリアルに嫌気が差し、高校生になってTwitterを始めた。現実よりもはるかに楽で、心の言葉をそのまま呟くことができるのが気持ち良かった。つくづく、私はTwitterに依存しているのではなく、Twitterで出会った優しい人たちに依存しているのだと思う。それほどまでに、周りの人たちが心地よく優しいのだ。同じように希死念慮を抱えた人や辛い過去を持った人の呟きを見ていると、共感という単語では抑えきれないほどの感情が渦巻くことがある。

鍵垢で繋がって、特に仲良くなった人が何人かいる。心の辛さをそのまま吐き出せるような、本当に優しいたちだ。でも、最近。私は怖くなってきてしまった。仲良くなれば仲良くなるほど、親しくなれば親しくなるほど、関係を持つということの重大さに気がつくのだ。勝手に依存して取り返しのつかないことになってしまうんじゃないか、そうやって恐ろしくなる瞬間がある。

こんな自分と話すのに時間を使ってもらって申し訳ないという気持ちと、よぎる自分の容姿。現実とは違ってSNSでは、お互いの顔を知らないままにコミュニケーションを取る。心や言葉だけで惹かれ合うが故に、私は申し訳なくなってしまう。こんな奴が鍵垢で喋りまくって、こんな容姿のくせに。そんなことを自分に向かって思ってしまうから、私は後悔している。人と関係なんて持たずにひとりで過ごした方が、よっぽど社会のためだったんじゃないかって。こんな奴が人との関わりを求めること自体がいけなかったんじゃないかって。


なんでも肯定してくれる人も優しい人も、画面の向こうには存在するけれど。かけられたその言葉たちを素直に受け取れず、結局自分が悪いと思い詰めてしまうから。そしてまた、変われない自分を責めて苦しくなってしまうから。だから、ずっと孤独でいる方がましだ。

本当は、死にたい死にたいどうしよう助けてって、そう大声で叫びたいけれど。人生で一度くらいは、誰かの胸で思いっきり泣きたかったけれど。

もうSOSを出す気力もなくなったし、愛されたいとかいう、そんな傲慢な考えも薄れた。

リアルを諦めて手を伸ばしたSNSでもこうなのだったら、自分はもう死んだ方がいいんじゃないかと、そう強く思う。やっぱり、生きててごめんなさい。


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