永遠の現在を生きつづけるということ
ロンドンのアルメイダ劇場でチェーホフの『三人姉妹』の芝居をみたので、久しぶりに原作を読みかえした。ライフストーリーとコメディを研究しているわたしにはコアな作家で、また会いに行かなければとずっと思いながら、ごぶさただった。
こういうときわりとよくお世話になるのが、光文社古典新訳文庫。その『ワーニャ伯父さん・三人姉妹』の解説で浦雅春さんが、青春文学と中年文学ということを書かれていて、おもしろかった。
子どものときや若いころに読んで感動するのは、『若きウェルテルの悩み』のような、青春文学である。「現在」の先にはなんらかの夢なり希望の「未来」がある。ないし、その「未来」が失恋や挫折によって断ち切られ、しばしば主人公は、自死する。
○が未来、◻︎が現在、xが(自)死とすると、青春文学は、
○←◻︎ (現在の先に希望)
x ←◻︎ (未来が挫折)
これにたいして中年文学は、
◻︎←◻︎ (現在しかない。中年の基本的なあり方)
◻︎←○←◻︎ (一時の迷いから元のさやにおさまる)
この、◻︎から◻︎へ、というのが、渋い。中年は永遠の現在なのである。キアロスタミの映画のタイトルでいえば、「そして人生はつづく」、というやつ。
三人姉妹は、それぞれ違う色の服を着ている。長女のオリガは青い制服、次女のマーシャは黒いドレス、末っ子のイリーナは白のドレス。オリガは教師である。マーシャは主婦だが、不毛な結婚生活から脱出するため、さらに不毛な不倫関係に陥る。イリーナは青春である。
彼女たちの父親は将軍で、かれらはずっとモスクワに住んでいたのだが、父親が連隊長になって、列車の駅から20kmも離れた地方に越してきた。
そして父親が亡くなって1年。自分たちの人生が空虚であることに耐えられない彼女たちは、モスクワへ帰ればうまくいく、と思いながら、帰れないでいる。たとえばイリーナは、モスクワに帰れば真実の人にめぐり合える、と思っている。
また、仕事をすれば生きがいが見えてくると思うのだが、まったくそんなことにはならない。「べつの仕事を探すわ。今の仕事、あたしには合わない。あたしが望んで夢に見ていたものが、今の仕事にはないのよ。ポエジーも思想もない労働なんて......。」
オリガは校長になる。「何事も思い通りにはならないものですわね。私は校長になんかなりたくなかったのに、なってしまいました。これでもうモスクワには帰れませんわ......。」
当初の計画では、マーシャは自殺をはかることになっていたが、それをやめた。死ぬことでなく、永遠の現在を生きることの方が描くに値すると、チェーホフは考えていたにちがいない。
人物たちはそれぞれ、モスクワに帰ればこの空虚感が満たされるに違いないとか、何百年後の未来には新しいしあわせな生活がきっと訪れるので、その生活のために今を生きているとか、よくわからないことを喋りまくる。
お互いの会話がコミュニケーションとして成り立っているかどうかなどということにはお構いなく、とにかく喋りまくるのである。まさに言葉、言葉、言葉。
わけのわからないことを喋りつづけるのが笑いになる、ナンセンスコメディの世界に、限りなくちかい。
たぶんかれらは、永遠の現在を耐えしのぶために、喋りつづけているのである。言葉を紡ぎつづけることが、祈りというか、生きるいとなみそのものになっている。
イリーナはいう。「やがて時が来れば、どうしてこんなことになったのか、なんのために苦しんできたのか、それが分かる日がやってくる。...それまで生きていかなくてはいけないのね......。」
そして芝居を締めるのは、「中年」のオリガ。「私たちの人生はまだ終わりじゃないの。生きていきましょう!音楽はあんなに愉しそうに、あんなにうれしそうじゃない。もう少し経てば、私たちが生きてきた意味も、苦しんできた意味もきっと分かるはず......。それが分かったら、それが分かったらねえ!」
わからないからこそ、永遠の現在、ということなのだろう。わからないことに耐えながら、とにかくそして人生はつづく、のである。
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