見出し画像

毎日書くということについて、平成の大晦日に考える

よく作家が、朝はとにかく執筆、という。午後は手紙を書いたり出かけたりして、夜は読書、というような感じ。そういう生活はすてきだな、と思う。

文学や映画の研究をしていると、毎日朝から書くという生活には、あまりならない。書く段階になれば、1日中書きまくることになるのだが、その前にリサーチをしなければいけないからである。

普通は仕事に行かなければいけないので、朝は授業である。それがない日でも、朝から書くというよりは、朝から読む、ということの方が、かなり多い。何日間かにわたって、1日中読んでいる、ということがよくある。

数日間、600ページの洋書(日本語の本より1ページの字数が多い)を読みつづける、というような生活である。1日中観ている、ということもある。もちろん、それをやっているときは、ということだが。

その間は、書いてもノートや日記くらい。自分のために書くノートにもリズムがあるが、それは情報を発信するリズムとはやはり、ちがう。それでノートならぬnoteを書きはじめた。研究をしても、社会に還元しなければ、意味がない、と思ったからだ。

「そうじ力」の舛田光洋さんが、「作家も三日書かなければただの人。毎日書くことについて、司馬遼太郎が語ったこと」というnoteの記事で、司馬遼太郎の言葉を紹介されている(「週刊朝日増刊 司馬遼太郎が語る日本未公開講演録集Ⅲ 法然と親鸞(上)」)。

体の中には何か楽器のようなものがあり、リズムがあり、文章はそれに乗って生まれる。三日も文章を書かずに旅行ばかりして遊んでいると、四日目に帰ってきて原稿を書く場合、脂汗が流れるほど四苦八苦する。三日遊んでいると、体の中にあるリズムが消えてしまう。

タクシーの運転手さんも、一日運転しなかっただけで、リズムが消えてしまって、うまく運転できない。そのリズムにさえうまく乗せれば、自分の見たこと、感じたこと、書こうとしていることがうまく文章になっていく。というような話だった。だからなんでもはじめてみることが大事、ということなのだろう。

情報発信も毎日しているとリズムがついてきて、そのリズムを途切れさせたくないと、と思うようになる。

しかし毎日締め切りがあるわけで、結局はまとまった仕事なり研究なりをするための時間がそこに投入されている、ということにもなる。ここが困った点である。

令和はますます、すでに爛熟状態にあるネットによるコミュニケーションを背景にした、ネットによるアウトプットの時代に、なるのだろう。

昭和時代に、本を読みながら育ったわたしとしては、平成時代に起こったすさまじいネット環境の変化と、それによる書籍人文文化の衰退を目の当たりにして、これからどうやって生きていけばいいのかと、思ってしまう。

毎日何かを書くことは、生きるプロセスの一環だから、つづけなければいけない。しかしこのネットの爛熟時代に、何をどのように?こういう時代に、人文文化を、どのように守っていくことができるのか?

答えは見えない。でも令和時代を生きとおすくらいのことはできそうな気がするので、できる限りのこと(何を?が問題なんですが)は、やりつづけていかなければ。

#毎日書くということ #司馬遼太郎 #舛田光弘 #ネット爛熟時代 #令和の生き方 #アウトプット #note #ブログ #読書 #作家の生活 #朝は執筆 #田中ちはる

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?