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わたしにとっての"ふつう"。


ふつうってなんだろう?

先日、ふと見つけたこのnoteを読んで、ふつうという言葉への嫌悪感が少し薄れたような気がします。


わたしは"ふつう"という言葉が嫌いでした。

それはきっと、今まで出会ってきた人が押し付けてくるふつうという感覚と、わたしの持つふつうに大きな差異を感じることが多かったからかもしれない。「世の中ではこれがふつうだよ」という他人からの圧力に嫌気が差す瞬間がこれまで幾度となくあったのです。

とはいえ、ふつうが嫌いと言いながらも、よくよく考えてみれば、わたしの中にもわたしにとってのふつうが存在しています。

ふつうという感覚はみんなが持っているけど、わたしにとってのふつう、あなたにとってのふつう、あの人にとってのふつう、どれも同じなはずがないのです。


わたしの中のふつうが出来上がる過程で、大きく影響を与えたのは確実に母の存在。

両親はわたしが1歳の時に離婚し、それからずっと母と二人で生活してきました。幼い頃は引っ越しや転校も多かったから、長い時間をともにした友達はほとんどいません。そんなわたしにとって、人生の中で一番時間をともにしている人は母であり、この25年間、苦楽をともにしてきた母の価値観や思考を浴びるように育ってきました。

たぶんわたしの母が持つふつうは、かなり他の人とはズレている気がする。

「みんなと同じことはしなくていい」「嫌なことはやらなくてもいい」「学歴なくても幸せに生きていける」とずっと教わってきたし、学校でいじめられて不登校になったときも「好きにしなさい」とわたしの行動を一度も否定しなかった。しまいには「お母さんが通ってた母校に転校してみる?」と転校までさせてくれました。

それから何年か経ってネットで目にした記事、いじめられて学校に行きたくなかったけど「とりあえず学校に行きなさい」とご両親に言われ苦しい思いをしたという体験談を見たとき、この人やそのご両親にとってのふつうはこれだったんだ、わたしと母にとってのふつうは、このご家族にとってふつうではなかったんだ、と知りました。


幼い頃、友達と家族の話しになると「ちーちゃんちって母子家庭なんだ、なんかごめんね。」と申し訳ない顔をよくされました。両親が離婚してるって可哀想なことなんだ、離婚してないことがみんなにとっての普通なんだと知ったのは、おそらく小学生になってから。物心ついた時から母と二人暮らしだったわたしは、どうして 母子家庭=可哀想 になってしまうのか、さっぱりわからなかった。少なくとも自分で自分を可哀想だと思ったことは一度もありません。母と二人で生活する日常は充実していたし、離れて暮らす父とはたまに会うのがわたしにとってのふつうであり、むしろこの距離感がちょうど良くて心地よかったのです。


わたしの母は、とても男まさりな性格で、「女の子っぽい」という言葉とは対極にいるような存在。常に強気で、思ったことは物怖じせず誰に対しても真っ直ぐぶつける。

以前は男社会といわれる不動産業界で働いていて、女だからとナメられたこともたくさんあったみたいですが、その度に怒りをパワーに変え、バリバリと働いて、周りをあっと言わせるような成果をたくさん出していました。最近はセミリタイア?のような生活をしている母ですが、今でも老若男女を問わず色んな人から頼られて、相談に乗っています。

学生時代は男友達が多かったらしく、音楽やファッションの話しも、男友達と話しているほうが楽しかったらしい。


そんな母の影響もあってか、自然とわたしも「女らしい」とか「モテる」という女子の競争の中に飛び込むことはなかったような気がします。というより、もしかしたら、飛び込めなかった、というほうが正しいのかもしれない。

中学時代は、女子の中で繰り広げられるいわゆるガールズトークと言われる恋バナや他人の悪口に違和感を感じ、その空間がとにかく苦手で、ずっと男友達と過ごしていました。そんなわたしを不思議に思う同級生もいたけど、放課後は男友達と遊ぶという日常はわたしにとってのふつうだったのです。


19〜20歳くらいの時は、自分と他人とのふつうの差異に、一番もやもやした時期だったかもしれません。アーティストグループとしてデビューして3年半が経ち、周りからはこれからだ!と言われていた時にわたしはグループを卒業し、所属事務所を退社したけど、「なんで?もっとちゃんと考えなよ。もったいない。」と散々言われました。19歳で自分の会社とブランドを作ったときも「ふつう勉強してから始めるんだよ。上手くいかないかもよ。苦労するよ。」と大人たちにこてんぱに言われたのを昨日のことのように覚えています・・・。


周りから自分の価値観とは違うふつうを押し付けられるたびに、わたしはそれに反発して抗ってきたような気がする。「ふつうはこうだよ。」と、会話に"ふつう"という単語が出てきただけで無条件に嫌な気持ちになるような、ふつうアレルギーみたいなものが、知らぬ間にわたしの中に存在していました。

そのアレルギー反応が良くも悪くもエネルギー源になっていたこともあったけど、冒頭で紹介したnoteを読んで、もしかしたら、誰かのふつうに抗うことは、イコール、わたしのふつうを相手に押し付けてたってことにもなるのかも?と思えてきました。誰かのふつうに反抗することで、無意識のうちに誰かを傷つけていたかもしれないと考えたら、ものすごく反省・・・。

"ふつう"という感覚をそれぞれ持つこと自体は、全く悪いことではないのです。

きっとわたしがふつうアレルギーになってしまっていたのは、ふつうを押し付けられるという経験が積み重なってのことだったんだと思う。


自分の中のふつうを他人に押しつけず、それぞれの多様なふつうが混じり合って、受け入れ合う。

誰かのふつうが自分のふつうにならないように、自分のふつうが誰かのふつうにはならない。

色んなふつうを、自分の勝手な物差しでプラスやマイナスと受け取ってしまうのではなく、相手のふつうを通して、自分の見えなかった世界や感じられなかった感覚を楽しむように、大切にしていきたいなぁと思います。


武藤千春

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