お風呂か、温泉か。#私なりの生きづらさ論
このお風呂か、温泉かって言うのは、私にとって、「他者による自己肯定」であるか「自分による自己肯定」であるかという話です。
自己肯定の形は大きく分けて、2つあると思っています。
1つ目は、誰かの物差しではかる自己肯定。
これは、先ほどのマウンティングだったり、テストの順位だったりする、誰かからの評価を元に自己肯定する方法。
2つ目は、自分の物差しではかる自己肯定。
これは、誰かがどうだとか置いといて、自分の中の考えや思いで自己肯定する方法。
皆さんはどちらの自己肯定の方が幸福度が高いと思いますか?私は、間違いなく後者だと思います。
前者の方が、自己肯定するのはとても簡単です。だって、「先生に褒められたから」「友達から羨ましがられたから」というような誰かの評価という証拠があるから。
でも、誰かの評価が無くなれば、その自己肯定は出来なくなります。
また、その形の自己肯定をすることによって、常に他人と比べなければならなくなります。
それって幸せだと思いますか?
私はそうだとは思えません。
私は、周りの評価を気にする、周りと比べると心が苦しくなるんです。
きっと、周りにはいっぱい素敵な人がいて凹む自分がいるからかもしれないし、トラウマがあるのかもしれないけれど。
これについては、長くなるのでまた今度にしますが。
それに対して、後者の方法の方が難しいけれど、幸福度は高いと思います。
というのも、後者は自分を見つめて、嫌な自分も好きな自分も受け入れて、「どんな私でも大丈夫!」と言えるようになる方法だから。
この方法って、本当に苦しい。見たくもない自分自身を認める事だから。
でも、出来るようになれば、他の人の評価を気にしなくても、比べなくても、自分の中で「大丈夫」だと言えるようになるんです。
前者と後者の自己肯定を例えるなら、
前者は、ボタンを押せばお湯が出てくるお風呂なら
後者は、何もしなくても湧き上がってくれる温泉です。
前者の方法は、誰かの評価をいちいち確認しなきゃボタンを押せない、お湯も出てこないのに、後者の方法なら、掘り当てちゃえば何もしなくてもお湯が湧き上がってくれる。
私は、そんな温泉のような自己肯定をしてもらいたいなって思うし、私もそう出来るように頑張ってる最中です!
ちなみに、この記事を書いたのは今から2年半前ですが、今でも中々温泉スタイルの自己肯定にはたどり着けません。
温泉スタイルの自己肯定を身に着けるには、周りの人からの安心できるバックアップ体制が必要なんじゃないかなと思う最近です。
「私はこうでなくてはいけない」「私はこうしなきゃいけない」「弱くてはいけない」と×印を付けていた昔に比べたら、今は弱さも汚いところも文面でなら曝け出せて、それを許容してくれる人も有難いことに存在します。
「そのままの私」でも大丈夫。
だから、この言葉を許容できそうになってきました。
そんな19歳10ヶ月の私です。