ある音楽家との思い出
僕は基本的に、身内に向ける尊敬の念は持ち合わせていないのだが、ただひとり例外があって、母方の祖父のことは師匠だと思っている。
ここで「師匠」と言ったのは、いわゆる「心の師」みたいな意味ではなく、短い期間ながら僕は祖父に師事していた時期があったのだ。
音楽家だった祖父の生まれは昭和8年。京都に生まれたのち、すぐ東京に移動してきたようだ。
年譜には「昭和21年に東京高等学校尋常科に入学」とあるが、これは現在の東京大学教育学部付属中学・高校にあたる。Wikipediaの記述を信頼すれば、戦後に尋常科の募集を再開した初年度の入学であろうか。
聞くところによると曾祖母がかなり教育熱心だったようで、祖父とその兄(僕からみれば大叔父)とは二人とも東高の尋常科に入っている。時代を考えればかなり優秀だったのだろう。
で、中学の吹奏楽部で偶然手に取った楽器が縁となり、祖父は東京藝術大学へ進学する。
再び年譜を参照すると、「卒業と同時に東京フィルハーモニーに入団、のち首席奏者に」とある。年譜上は芸大の研究科にいた時期と重なるのだが、研究生とオーケストラ奏者が兼任できるのかどうか、寡聞にして僕は知らない。
昭和37年、読売交響楽団が発足するに際しての創立メンバーとなり、平成5年の退団まで活躍を続けていたようだ。(年譜には「26年間首席奏者を務める」とあるが、これがどこからどこの26年間を指すのかは知らない)
芸大での指導は続けていたものの、平成12年に定年退官する。僕の記憶があるのはこのあたりの時代からだ。
僕が祖父と同じ楽器を習い始めたのは平成10年あたりのこと。
現役はほとんど退いていたものの、経歴を見ればわかるように、祖父はその道では「大先生」である。
となると、僕のような「素人」を相手にするのはちょっと違うわけで、僕は余所の先生に習っていた。
気を遣わせるのは悪いと母が判断したのか、僕が祖父の孫であることはその先生には敢えて伝えられていなかった。僕も僕で、幼稚園生とか小学校低学年とかだったから、祖父の音楽家としてのすごさは理解していなかったはずだ。
ところが、あるとき先生との会話の中で、祖父が音楽家であることを話してしまった。
固く口止めされていたわけではなかったので、「おじいちゃんの名前は?」と聞かれるにしたがって祖父の名前を答えると、先生は一瞬硬直したのち、本棚にあった専門誌からあるページを指さし、「もしかしてこの人?」と言ってきたのを覚えている。
当時祖父は、奏者のあいだで読まれる専門誌に連載を書いていたのだった。
僕が祖父に楽器を習ったのは、中学1年のある一時期のみである。
地域のジュニアオーケストラの入団試験に際して、いい機会だからと祖父に指導を頼んだのだった。
さすがにその歳になっていれば切り替えもできるわけで、レッスン中はもちろん、僕は祖父のことを「先生」と呼んでいた。
芸大講師時代は非常に怖い先生として知られていたそうで、練習をしてきていないことがわかればその場で追い返したし、出来が悪ければレッスン中でも一切口を利かず「こんにちは」と「さようなら」しか言ってもらえなかったとかいうお弟子さんの話も聞く。
それから20年以上経って気力が落ちたのか、孫である僕にはそこまでキツく当たれなかったのか、才能のない孫には言っても無駄だと思っていたのか。実はその全部が正解なのだと思うのだけど、ともかく、今思い返しても非常に充実したレッスンであった。
残念ながらその時のオーディションには落ちてしまったが、年を経た3年後の高校1年の時分、欠員が出たからという連絡をいただき、念願かなって市の運営するジュニアオーケストラに入団することができた。
しかし、入団の報告を祖父にすることは叶わなかった。
その時にはもう、祖父は鬼籍に入っていたのである。
祖父が逝去したのは僕が中2年の時、一度脳出血で倒れたものの奇蹟的に大きな後遺症はなく、ただ入院を続けていた(このあたりの詳しい記憶は薄い)のだが、いつのまにか衰弱して死んでしまったのだった。
やさしいおじいちゃんであると同時に「先生」でもあった祖父の死は、僕にとって相当こたえるものであった。また今にして思うと、もっと教わっておきたいこと、聞いておきたいことは山ほどあったのだ。
最近YouTubeを見ていて、三島由紀夫が軍艦マーチの指揮を振っているという映像の演奏が、読響のものであると気づいた。時代的には間違いなく、祖父が所属していたころの公演だ。
そう思って映像をよく見てみると、遠目ではっきりとは分からないが、シルエット的にどうも祖父らしい人物が演奏している姿を確認することができた。
別に三島が振ったからどうってわけじゃないが、一度そのときの話は聞いてみたかったと思う。
祖父の事を思い出すと、そういう後悔ばかりが募っていけない。
さて、ここまで読んでモドカシイ思いをした方があるかもしれない。
実際、書く側としても隔靴掻痒だったのだが、祖父が――ひいては僕が何の楽器の奏者であるか、一切言及しなかった。
別に祖父の名前がバレて、辿っては僕の本名が明らかになったところで、それはあんまり問題ではない。
僕が問題視しているのは、祖父が死んだときに出されたメモリアルCDに、「お孫さんとのデュエット」として僕の演奏が特別収録されている、そのことに尽きる。
ちょこちょこ書いたように、僕に楽器の才能はなく、収録された音源も実に酷い演奏で、まあ10歳の少年がおじいちゃんと一緒にやっていると考えればかわいらしさがないでもないけれども、本人としてはこれが市井に出回っているのはかなり恥ずかしいものである。
いわば、「音バレ」が嫌なわけだが、大先生たる祖父には晩節を汚すようで申し訳なく思っている。
で、なぜ急にこんな話をしたかというと、祖父が生前に唯一出版した初心者向けの教則本が発掘されたためだ。
すでに楽器の演奏はやめた僕だけれども、祖父の本は手元に置いておきたいと実家を探してみたところ、出てきたそれは祖父が書入れをした本で、楽譜や文章における誤植が丁寧に直されているのだった。ワープロでお手製の正誤表まで作っているのがさすがである。
現役の時に読んでいなかった僕は怠惰以外の何物でもないのだけれど、ちょっと見てみると、祖父の文は実に読みやすく、驚いたことに、僕の理想とするリズムと同じ文章構造をとっているのだ。僕が文学部を選んだのも、案外道理なのかもしれないと思わせる。
この教則本は界隈での評判が非常によく、絶版となった現在でも「復刊ドットコム」にリクエストコメントが入るくらいに語り継がれているのはありがたい話である。
権利関係がどうなっているのかは知らないし、この訂正が活かされた重版が出来したかどうかはわからないけど、その気になれば復刊できるんじゃないかなという予感もあったりする。
どうせ暇な人生だし、ちょっと取り組んでみても面白いかもしれない。
というかなにより、才能が皆無であるにもかかわらず、いまだに音楽を欲している自分があることに驚きを隠せないのである。
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