マナー、あるいは一般常識
今をもって社会らしい社会に生きてはいないし、これまでにもたとえば、部活動とかサークル活動とかいったコミュニティに属するのも忌避してきたので、僕は自分で社会性に乏しい方だと思っている。
だからというわけでもないのだろうけど、「マナー」なんてレッテルの貼られた実のない諸儀式については、極めてバカバカしいものだと一貫して嫌ってきた。
このごろ話題にのぼりつつある、オンライン会議におけるマナーなども実にくだらなく、管見に入ったところでは、「終わるときはお辞儀をしながら接続を切る」だの「左上に表示されるのが上座」だの、さすがにここまで馬鹿げていると単なるネタであると信じたい。
が、就活において「ノック2回はトイレに用いるものだから、面接会場で使うと失礼」なんてのがまかり通っていたり、「ご苦労様」が人を見下しているとして怒り狂う人が後を絶たなかったりすることを考えると、ちょっと不安になる。
いやこれが「静かな環境で接続する」とか「自室でも身だしなみは整える」とか、その程度ならわかる。「目上の人より先に退室しない」のも、まあ常識的判断と言っていいかもしれない。
いま「常識的」と書いたが、自分で言っておきながら、これはかなり危険な尺度である。どの程度までを常識と見なすのかというのは非常に難しい問題だ。
何か書類をやり取りするときの返信用封筒で、「〇〇行」とあるのを、二重線で消して「〇〇様/御中」と書き換える手続き、これは個人的には「常識」に属すると思っている。
世間でもよく知られた「マナー」だから、やらない人(うっかり忘れた人含む)などは非常識のレッテルを貼られてしまう可能性があるだろう。
けれども、これが例えば「上司の印の隣にハンコを押すときは、そちらへお辞儀するように傾げて捺す」といったエセマナーとどこが違うのか、と聞かれると答えに窮する。
どちらも実務に与える影響は皆無で、いわば無駄な労力を増やしていることは同じだ。
逆に、経済的観点から必要ない要素を排除しきってしまうとなれば、敬語のように円滑なコミュニケーションを進める手段すら捨てられかねない。それではあまりに寂しい。
だからこうしたマナーとか気遣いとかいうものは、言うなれば人間同士が人間らしく関わるためのスパイス的なものかもしれないから、やや引いた立場から鳥瞰的にみると健気でかわいらしく思えてくるではないか。
「常識」という言葉は雑学的な知識にも使われるけれども、線引きがむつかしいのはマナーと同じである。
大学時代、付き合いのあった同級生に十二支を全部言えないヤツがいた。
「ネー、ウシ、トラ、ウー……」なんて、たとえ漢字では書けなくても、呪文のように順番で覚えているのが「常識」だと思っていた僕は、大学生にもなってそれを言えない彼をちょっと蔑んだ。
彼は頭から順番に唱えることができず、「えーっと、確かイヌはいるから、あと……ネコは入ってる?」なんて言われ絶句した僕の気持ちも理解されたい。
が、「学校で習わなかった」という彼の言い訳にもあるように、十二支を暗記しなくてはならないタイミングは人生において皆無だったとも思う。テストで問われたこともなければ、自分の以外の干支に言及する機会が稀であることも確かだ。
しかしだからといって十二支くらいは……と思うのも、自分の思い描く「常識」の枠を押し付けているわけで。
春の七草とか夏の大三角とか、知らなくても死にゃあしないものの、なんとなくみんな覚えている知識というのは分野を問わずあるけれども、知らない人があっても嗤わないくらいの度量は持ち合わせておきたいものだ。
マナーについても、同じことが言えると思う。
自分が気遣いと思ってある振る舞いをする、その心がけは立派だし咎める必要はないけれども、その枠組みでしか他者を見ることができず、はみ出し者を叱責するのはいただけない。
やりたい人がやりたいようにやる。各々がそれぞれに思いやりを持った行動をし、また敬意を表するに足る行いをしていれば、本来なんの摩擦も生じないはずだ。
対人関係がオンラインで為されがちな現代であるからこそ、虚構のルールだかマナーに縛られるのは御免こうむりたいものである。
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