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トークイベント「これから短歌の話をしよう 荻原裕幸×千種創一」(記録)

 2022年12月29日(木)、名古屋「ささしまスタジオ」で、荻原裕幸と千種創一のトークイベント「これから短歌の話をしよう」が開催され、約50名が参加しました。ここから議論が広がればとの思いから、以下その概要を公開します。

1 はじめに

千:このイベントは、荻原裕幸の歌集『永遠よりも少し短い日常』(書肆侃侃房)、千種創一の詩集『イギ』(青磁社)・歌集『砂丘律』文庫版(筑摩書房)の刊行を記念したもの。雨のぱらつく寒い中、足をお運び頂き、感謝。
荻:かつて名古屋は、今以上に短歌の集まりが盛んだった。コロナもあって下火だったが、このたびこのようなイベントが開催できて幸甚。

2 荻原裕幸歌集評

千:秋に打合せたとき、荻原から「印象論にならないようにお互い具体的なテキストに則した発言を心がけよう」と言われて、感銘を受けた。その精神に基づき、具体的な歌を弾きながら話したい。

(1)リリカル・アンドロイド

さくらからさくらをひいた華やかな空白があるさくらのあとに
秋になる寸前でまだ揺れてゐるあなたの奥のみづに気がつく

歌集『リリカル・アンドロイド』荻原裕幸

千:荻原歌集『リリカル・アンドロイド』を読んで気づいたのは、1首目のような、不在を幻視する歌たちが多いこと。幻視は幻視でも、例えば道の蟻が王様に見えるようなタイプの幻視と、なくなったものがそこにまだあるかのように見えるようなタイプの幻視と、大まかに2種類あると思うが、荻原は後者。
 また、同じく荻原歌集の『永遠よりも少し短い日常』と比べて、『リリカル・アンドロイド』には上掲2首目のような抽象度の高い歌が多いのも好印象だった。

(2)永遠よりも少し短い日常

誘ひながらどこか拒んでゐるやうな新緑の岐阜そのさきの滋賀
けむりとねむりに凡て付箋がつけられて何を調べてゐたのか晩夏
抽象はすぐにゆるんで溝やロープだつたものから声する残暑

歌集『永遠よりも少し短い日常』荻原裕幸

千:『リリカル・アンドロイド』との比較で言えば、『永遠よりも少し短い日常』は、より現実世界に取材した歌が多いように感じた。現実といいつつ、パラレルワールドのような、少し浮世離れした、現実。
 他にも、例えば岐阜・滋賀の歌のような名古屋性の歌も若干多いと感じた。3首目の岐阜・滋賀の歌で言えば、これは関西方面に東海道線などで移動したことのある名古屋人なら地理感覚としてかなりわかるであろう一方、関東や関西の人間にはどう見えるのだろう、と思った。
 荻原裕幸は、短歌にしかできないことを追求している歌人。4首目の、「けむり」と「ねむり」という本来全く別の単語に音の類似性から連関を付与する歌、5首目の散文化しにくい歌などは、短歌でしかできない/短歌以外では表現しにくいと思う。「さくらからさくらをひいた華やかな空白があるさくらのあとに」のように、短歌は、何も言わないことができる詩型。

荻:自分の歌について、自分の目の前で批評されるのはこっ恥ずかしいものがある。(一堂、笑い) 名古屋視線については、書くときは自然に書いた。いざ読み返すとやや織田信長視点かなと思ったが、まあいいか、全国規模、と思って歌集に入れた。

千:そこがとてもいい。東京はずるく、例えば、椎名林檎は、何の断りもなく歌舞伎町や丸の内を歌詞に出してくる。

荻:東京の地名を、東京在住の非東京出身者が使いたがる現象はある。一方で、私にもそれを羨ましいと思っていたところはあった。ずっと名古屋の地名を詠み込むことをできなかったが、図々しくなったのか、最近はできるようになった。

千:それは、自分に「これは他地域の人には通じないかもしれない」とリミッターをかけていた感じか。

荻:理解されなかったらつらいだろうなとの思いはあった。例えば「瑞穂区」に関しては、私が書き始めた頃の80年代、90年代は、誰にも通じない部分はあったが、最近はGoogleの発達で、そうした障害は低くなってきた。名古屋の人は、名古屋について使わない傾向はあった。そういう意味では面白く使えたらいいなと思っていた。

千:韻律面も練り上げられている感じがする。短歌57577の3句目5音は、短歌の韻律の核。フラワーしげるや野村日魚子の破調の激しい歌たちにも存在する。そうした中で、荻原の、例えば5首目「抽象はすぐにゆるんで溝やロープだつたものから声する残暑」の3句目「溝やロープ」は6音で、その前後の句に間延びした感じを与えており、成功しており、荻原はこのあたりの扱い方が上手い。

荻:3句目の6音に関しては、そこまで珍しくない。葛原妙子などは3句目がない歌も作っている。

千:破調に振り切れた韻律の中の6音と、定型の韻律の中の6音では違う部分があるだろう。荻原の歌の、「溝やロープ」の6音はわざとか。もちろんこの歌では絶対6音の方がよいものの、一方で「溝と紐」に変えたら一応は定型に収まる。

荻:これ以外に考えていなかった。書いた当時のこと正確には思い出せない(笑)

3 千種創一歌集・詩集評

荻:次は千種の歌集と詩集について話したい。

(1)砂丘律 文庫版

千:2016年の砂丘律(青磁社版)批評会では、荻原にパネリストを務めて頂き、「別にいいのにって言葉の裏にある庭へ出てCamel数本を吸う」という歌を、「強引な修辞」として評して頂いた記憶がある。

荻:自分としてもなぜそんな説明しにくい歌を選んだのかわからない(笑)。今回砂丘律を読み直して、選んだ歌は以下のとおり。

煙草いりますか、先輩、まだカロリーメイト食って生きてるんすか
恋だとか年金だとかもうよくて今は冷たい葡萄を食べる
携帯が通じるのに死ぬ雪山の遭難おもいながら砂踏む
壜の塩、かつては海をやっていたこともわすれてきらきらである
屋上であなたが横から見せてきた地図に最初の雨粒は鳴る

『砂丘律』千種創一

荻:1首目、歴史仮名で書いてあればまだしも、これは句点のない、LINE文体。ゆえに、平凡な力量の作者がこの文体で書いたなら、そもそも文芸作品に見えるかどうか。昔のあなたを知っていますよ、という先輩への生意気な目線がリアル。
 1首目〜3首目それぞれ、同時代の背景を引っ張ってくるのが上手い。恋や年金はかつてはとても大事なものだったが、この無気力な感じは現代ぽい。携帯が通じるのに死ぬという不気味さもとても現代ぽい。
 4首目、壜の塩、理屈っぽくありながらも、無邪気な少年ぽさがある。「きらきら」で成功する歌は、少ない。その意味で飛び道具、離れ技的ともいえる。5首目、そのままの情景なのに、何か新鮮な感じがする。地図は希望の象徴か。
 千種は、特殊な修辞を駆使するが、たまに素朴にまとめているように見える文体の歌も作るのが特徴。自分なりの答えに辿り着いてしまうとつまらなくなるタイプの歌。

千:目の前で評されると、やはりこっ恥ずかしい。(会場、笑い) 恥ずかしいから、次へ。

(2)イギ

荻:それでは千種詩集『イギ』から、定型詩の作家が書いたものと特に強く感じた「蝙蝠傘」の冒頭を。

雨の旧市街を歩く
視野の上半分に傘の内側
傘の骨が鉛色に曲がつてゐる
曲がるのが傘の骨
曲がらないのは人の骨

「蝙蝠傘」より(詩集『イギ』千種創一収録)

荻:千種を歌人として見たときに特に面白く見える作品。視覚的なのが短歌らしさを感じさせる。「曲がるのが傘の骨」から「曲がらないのは人の骨」に飛んでいるのが、非常に上手くできた短歌連作を見たような印象。表現がストイックだけど、俳句ほどでもなく、短歌的なストイックさ。風景や比喩や感性を組み合わせている。千種の良さが発揮されている。
 この作品を取り上げることを事前に千種に知らせたら、千種は、「蝙蝠傘」は某雑誌の投稿欄で某選者から落とされた詩だと漏らしていた。これを踏まえると、「蝙蝠傘」は詩人には響かず、歌人である自分に響いた詩なのかもしれない。

千:そういえば岡井隆や塚本邦雄も詩を書くが、短歌作品の方が質が高いと感じた。

荻:岡井や塚本の詩は、それぞれのファンが特に面白がる傾向がある。岡井隆は初期、「定域詩」と名付けた詩を書いており、緊張感があって面白かった。一方、後期の散文詩は、詩壇からの賞も受けていたものの、詩人の側から実際どう読まれていたかは気になる。いずれにせよ、私としては、『イギ』は楽しく読むことができた。引き続き書いていってほしい。

千:こうして荻原に届いたのであれば、「蝙蝠傘」も詩集に入れた甲斐があるというもの。現代詩手帖2021年10月号の定型詩特集には、千種の他、歌人の大森静佳、井上法子、川野芽生が企画で詩を寄せており、僕は彼女たちの作品には短歌性を感じた。東直子の小説でも、時折短歌を感じさせる段落があったりする。
 僕も含め、短歌から出てきた人々は、それまでに短歌をたくさん作ってきたので、他のジャンルで創作すると作品に短歌っぽさが出るという「量と慣れの問題」なのか、それとも彼ら彼女らはどこまで行っても創作物に短歌っぽさが宿る「創作の質の問題」なのか、ということを最近は考える。

荻:一般論として、そのジャンルの歴史を踏まえて書くと、そのジャンルの中に溶け込むことができるのではないかと考えている。例えば、俳人や詩人が書く歌も、短歌史を踏まえて書くと、歌人の書いた歌のようになる。
 一方、千種の詩作品にしても、他の歌人の詩作品や散文作品にしても、短歌を背景とした表現手法ができているのは、それはそれ自体で良いことだと思う。

千:それを聞けてよかった。とても勇気付けられる。

4 短歌ブーム

千:ここまでお互いの作品を中心に話を展開してきたが、ここからは少し文脈を広げて「短歌ブーム」について話していきたい。先般の短歌研究2022年8月号でも短歌ブーム特集が組まれたところ。
 僕らは「ブーム」の濁流の中にいるので、なかなか全容はわかるものではないが、一方で、さまざまな角度から理解しようと試みを続けるのは重要。

(1)「売れること」に向き合う

荻:「ブーム」と言うからには外から見て、ブームなのだろう。歌人たちはいわゆる「短歌ブーム」を意識していないと思われる。80年代から、道浦母都子や俵万智、林あまりの作品を含め、マスメディアに何度か短歌が大きく取り上げられることはあったが、「短歌ブーム」と名付けられたことはなかった。俵万智の、定型を崩さないで口語表現で歌を詠む、の延長線上で、5年おきくらいに短歌は話題になってきた。
 しかし、今回は、本格的、つまり、一般メディア側からの「短歌ブーム」との呼称から見ても、何か違う予感がしている。無理に盛られている感じがしない。だからこそ、今、短歌を見つめ直すのに良い時期。「わかりやすい歌」をどう評価するかが、ポイントになってくると、私は思う。歌壇は「売れること」に向き合うべき。

千:実は僕としても、文学的評価とは別に、商業的数字だけ見れば売れている方なので、どこに立とうか迷いがないことはない。数字の面で言うと、木下龍也などは売りに行くことへ振り切れているので、カッコいいなと思う。

荻:千種は数字の話を出すと困るかと思っていたが。

千:自分で地雷を踏み抜いていくスタイル。(会場、笑い)

荻:千種は、わかりやすい歌や一般受けする歌をあまり肯定的に捉えていないように見える。一方で、例えば枡野浩一はその正反対で、わからない歌を詠んでどうするのか、というようなことをずっと言ってきている。
 売上の数字の上では、木下・岡野と千種にさほど大差はない。売れることは否定できないだろう。そのあたりをどう考えるか。

千:こう申し上げると自己陶酔的に聞こえるかもしれないが、こんないい短歌はみんな読まないとみんな損だろ、というような、ねえ、こんな綺麗な石が拾ったよと人に見せるような、純朴なところで自分の短歌をプロモートしている部分はある。

荻:それではなぜ、売れることに後ろめたさを感じるのか。

千:短歌というものが貧しくなりそうで。本当は、甘味、旨味、苦味、などいろいろあっての食文化であるのに、ある特定の口当たりの良い味だけが広まってしまうことを懸念している。短歌にもいろいろな味があることを知ってほしい。
 その文脈で、次は短歌ブームの読者について少し話したい。

(2)短歌ブームの読者論

ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし /岡本真帆
アラビアに雪降らぬゆえただ一語 ثلج と呼ばれる雪も氷も /千種創一
縦書きの国に生まれて雨降りは物語だと存じています /飯田和馬
倒れないようにケーキを持ち運ぶとき人間はわずかに天使 /岡野大嗣
爆弾が落ちたニュースの流れてる食卓で落とす卵の軽さ /林見年

千:ここに挙げたのは、上から順番に2018年、2019年、2020年、2021年、2022年にバズった短歌。それぞれそれなりに良い歌ではあるが、修辞の比喩の観点から見ると面白いことがわかる。
 詩人・評論家の吉本隆明は、詩歌で使用される比喩を、像的喩・意味的喩・短歌的喩へ分類した。
 像的喩は「月とスッポン」のように形状や色に着目した比喩。意味的喩は「同じ轍を踏む」のように、意味に着目した比喩(物理的に同じ轍を踏むことではなく、失敗を繰り返すことを指している)。
 短歌的喩は、次の歌のように上句と下句とが全く別々のことを述べながらも、上の句が下の句の、下の句が上の句の喩になっているもの。

たちまちに君の姿を霧とざし 或る楽章をわれは思ひき /近藤芳美
灰黄の枝をひろぐる林みゆ 亡びんとする愛恋ひとつ /岡井隆

千:これら3種類の喩の視点から、先ほどの近年バズった5首を見返してみると、短歌的喩は使われていないことがわかる。
 例えば「倒れないようにケーキを持ち運ぶとき人間はわずかに天使 /岡野大嗣」を取り上げると、中距離〜長距離の移動を示す「持ち運ぶ」という動詞から、作中主体がケーキ入りの箱を運んでいることがわかり、多くの人は、この歌から、箱を運ぶ際の身体感覚を再現できるだろう。また福音(=ケーキ)を運んでくる天使、という意味的喩も感じさせる。しかし、短歌的な喩ではない。他の歌も同様。

荻:そもそも、今回この「短歌ブーム」を議題に設定したということは、千種も何か思うところがあったのではないか。

千:僕は一般の読者に対し、バズりやすいハンバーガーのような歌だけでなく、懐石料理や家庭料理のような歌も読んでほしい、と願っている。

荻:ここに挙げられたバズった歌たちは決して悪いわけではない。例えば、岡本のずぼらの歌は、場面設定などもしっかり伝わる良い歌だ。

千:もちろんハンバーガーを否定したいわけではない。岡本の歌は、そのピントのずれた謙遜の仕方から、焦る主体の顔が浮かぶ、好きな歌だし、歌会に出てきたらおそらく取る歌だと思う。ハンバーガーだっておいしい。ただ、一般読者には、ハンバーガーだけを短歌だと思ってほしくない。

荻:しかし、実際、歌壇からは、必ずしも評価する声が聞かれるわけではない。先般も、某中堅歌人が某若手について、顔が良くてそこそこ歌がうまい人が頑張っている、との趣旨の粗い評をしていた。

千:ここまで短歌人口が増えたのであるのだから、分業すればよいと思う。一つの店が、ハンバーガーも懐石料理も中華料理も出す、というのには限界がある。否定しあうのではなく、棲み分けして、ああ違う料理ですよね、と認め合えばいい。それが短歌の豊かさにつながる。

荻:実は、分業制については、過去にも短歌人口が拡大するたびに唱えられてきた。しかしそのたびにたち消えてきた経緯がある。

千:この話題の冒頭、荻原から「今回の「短歌ブーム」は何か違う予感がある」との発言があったが、そこに今回は分業制が成り立つ可能性を見出したい。

(予約は締め切られております)

5 名古屋弁の歌

 千:今回イベントの場所に名古屋を選んだのは、中央への反発があるから。放っておくと、文化資本は首都に集中してしまう。ここからは名古屋という方向から話していきたい。

千:実は事前質問が届いていて、「千種さんの連作「つぐ」は、荻原さんからみて"方言を取り入れた短歌"の系譜としてどのように位置付けられますか?」というもの。
 未読の方のために概要をお話しすると、連作「つぐ」は、方言や戦争の記憶が消えつつあるとの危機意識から、祖母に戦争体験をインタビューし、祖母の名古屋弁で祖母の記憶を、千種の修辞を使って、再構築する試み。
 我田引水的で恐縮ながら、荻原はこの連作についてどう思うか。

荻:難しい質問なので、自分との比較で話したい。名古屋ネタは自分でも書く。ただ、名古屋弁が入っていることはほぼない。短歌で名古屋弁を使うのは、私にとっては、マニアックすぎて荷が重い。また、名古屋弁は、両親が名古屋出身でなかったこともあり、必ずしもネイティブスピーカーというわけではない。ので、名古屋弁で書くのは、英語を入れて短歌を書くのと同じくらい難しい。
 名古屋弁で書くのは、中央と地方という対立構造ではなく、エキゾチックさを醸す効果があると思う。

(この後、千種創一が、短歌研究に寄稿した計91首「つぐ」の抜粋版を、荻原裕幸が『永遠よりも少し短い日常』収録の連作「平成群青クロニクル」を、朗読した。また、事前に寄せられた質問への回答も行った。)

6 おわりに

(1)荻原裕幸

 このくらいの人数(約50人)が集まって、やりとりができるような空間を今後も作っていきたいと、今日皆さんの表情を見ながら思った。今日は朗読があったが、もっと場を作ることを考えていきたい。

(2)千種創一

 先程、分業制の話が過去にも浮かんでは消えていったとご指摘を頂いたように、本日の対談を通じて、短歌史を勉強できたのがよかった。その意味でも荻原裕幸という大先輩と話せたのがよかった。自分の中の短歌観をいろいろと修正できた。今年は詩集を出したが、来年は小説を書いていきたい。どんどん書いていきたい。

【Special Thanks】
toi toi toi(イトウマ、坪内万里コ、吉岡優里)
ささしまスタジオ

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