定型の辺境を(野村日魚子歌集『百年後 嵐のように恋がしたいとあなたは言い 実際嵐になった すべてがこわれわたしたちはそれを見た』)
野村日魚子歌集『百年後 嵐のように恋がしたいとあなたは言い 実際嵐になった すべてがこわれわたしたちはそれを見た』(2022年、ナナロク社)は、近代短歌でありがちな個々の私生活の視点ではなく、神話のような視点から、生きること死ぬことについて描くエネルギッシュな歌集だ。その荒々しいエネルギーは、破調の歌の多さにも表れている。本稿では、主に同歌集の韻律について論じる。(引用歌は全て同歌集より。)
1 破調の歌の読解
「私」もしくは神視点が、震えている犬を眺めている、と読んだ。冒頭に呼びかけの「よ」があるので、どちらかというと眺めているのは「私」であろう。犬はなぜ震えているのか。犬は、夜が寒いこと、文字が読めないこと(世界には文字の読めない人々もたくさんいる)、いつか死ぬこと、様々なことから震えている。どれも怖いことだから。その犬に「犬よ」と呼びかける私(もしくは神)のまなざしは、暖かくすらもある。
韻律に、緊張感がある。散文的に意味上の切れで読めば「いぬよ(3)/いくつもあるぼひに(8)/かかれているもじの(9)/どれひとつとしてよめず(11)/ふるえているよる(8)」の計39文字(この歌も以降論じる歌も散文的に切って読むのは主観的にならざるを得ないが)。しかし、歌集として意識しながら読めば、「ぼひにかかれて(7)/いるもじの(5)/どれひとつと(6)/してよめず(5)」のように定型的要素を感じることができる。その散文的韻律と、韻文的韻律の間の緊張感が心地いい。
「とてつもなく長い昼とそうでもない夜」というのは夏の日の長さを言っていると思われる。この歌の良さは、子どもとして生まれてから、一字空けを挟んで、一気に喪服を着る年齢になるまでの時間の速度感だ。
韻律を見れば、散文的に意味上の切れで読めば「とてつもなくながいひると(12)/そうでもないよるのあいだに(13)/こどもとしてうまれ(9)/もふくがにあうあなた(10)」の計44文字。しかし、定型を意識しながら読めば、「ないよるの(5)/あいだにこどもと(7)/してうまれ(5)」のように、この歌にも定型的要素を感じることができる。
時制が嵐のように前後に揺れる魅力的な歌だ。初句で、現在と百年後の時点が設定されており、時点別で出来事を振り分けると以下のようになる。
【現在】嵐のように恋がしたいとあなたは言い
【現在〜百年後】「実際嵐になった」「すべてがこわれ」
【百年後】「わたしたちはそれを見た」
未来のことを過去形で表現しており、読み手は神の預言を聞くような、不思議な感覚に陥る。読み手は、すべてがこわれる/こわれたという「喪失」と、こわれたあとに何かを見るという「獲得」を同時に味わうことになり、胸の中に独特の切なさが残る。
前の歌のようにまずは散文的に意味の切れ目で読むと、「ひゃくねんご(5)/あらしのように(7)/こいがしたいと(7)/あなたはいい(6)/じっさいあらしになった(11)/すべてがこわれ(7)/わたしたちはそれをみた(11)」となるが、ここにも初句や二句目、三句目に定型的要素を感じつつ、結句に近づくにつれて定型が崩れていく、混沌を体感する。
2 定型の歌、定型に近い歌
上記のような歌を読んだ定型遵守派の人は言うだろう、「こんなものは短歌ではない、散文だ」と。もしこれが何の文脈もなく一行だけ目の前に置かれていたら僕だって短歌とはたぶん読めない。しかし、これは「歌集」と題された場である。実際、以下のような定型の歌も少なくない。
また、定型に近い歌も数多くある。
誰かと寝る、というのはその人をわかろうとする行為だ。この歌では、この作中主体が墓と寝てみる、つまり墓を理解しようとしていると理解した。しかし、わからないことがある。そして泣いてしまう。いくら私とあなたが近くても、たとえ共に暮らしたとしても、わからない神殿のような領域は絶対に残る。それでもこの作中主体は「想像」しようとすることを諦めない健気さがある。その健気さが、「はかとねて(5)/みればはかにしか(8)/わからない(5)/ことをそうぞう(7)/してなく(4)」の結句字足らずと響き合い、大きな欠落感を生み出している。
「てきせつな(5)/きょりかんのあめ(7)/ゆうれいに(5)/なってもあえるっ(8)/てことしんじる(7)」。
散文化すると「幽霊になっても人は人と会えるということを、濡れない屋内から雨を眺めるような冷静さで信じる」となるだろうか。結句の信じるという現在形に強い意志を感じる。結句の勢いある句跨りが、その強い意志を補強している。
3 破調の歌の読解、再び
かつて同人誌「羽根と根4号」に寄稿した評論「定型空母論」でも書いたが、破調の著しい歌を短歌たらしめる諸要素としては、
①7音や5音を内包する「定型的要素」、
②その発表の場(歌集や連作)が主に定型の歌もしくは定型の近い歌で構成されているという「環境的要素」、
③これは作者が短歌だと宣言する「作者の主張」、
が挙げられる。『百年後』はこれら諸要素を全て備えていることから、収録されたどの歌も短歌であると言える。
さはさりながら、『百年後』は激しい破調の歌が多い印象がある。収録歌を一首一首見て確認したい。収録された全139首中、定型の歌は7首、定型に近い歌は74首、つまり、定型もしくは定型に近い歌は139首中81首で、全体の約58%を占めるのみとわかる。これにより「環境的要素」にやや弱さがあることがわかる。なお、定型に近い歌たちは、歌集の中盤に多く配置されていて、絶対数の少なさをカバーする試みかもしれない。
(比較のために他の歌集について記すと、例えば、「1千万円あったらみんな友達にくばるその僕のぼろぼろのカーディガン」などの歌が有名で破調の印象が強い永井祐『日本の中でたのしく暮らす』は、274首中、定型の歌は89首、定型に近い歌は170首。すなわち定型もしくは定型に近い歌は274首中259首で、全体の約95%を占める。つまり、「1千万円」のような破調の歌の方が実は珍しい。)
「定型的要素」を含む歌を、作者が短歌だと「主張」しつつ発表し続けても、「環境的要素」が弱ければ、いずれ読者はそれを短歌だと感じられなくなっていく。『百年後』は、そうした危険性を孕む歌集ではあるが、表現の辺境を冒険をしないでどうして芸術家と言えるだろうか。短歌の辺境を、見たいし、見せてほしい。
レイアウトや装幀、構成などはまたどこかで。最後に、話せなかった好きな歌たちを引用しておく。
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