睡蓮試論(川野里子歌集『ウォーターリリー』)
短歌が主に「私」の声を運ぶ一人称の文学とされる中、川野里子歌集『ウォーターリリー』は、睡蓮(=water lily)という題材を媒介として、「私」の声に「他者」の声を混ぜることで、人称の重層化、またそれに伴う歌集世界の重層化にも成功している。
1 題材としての睡蓮
本歌集は、その名のとおり、睡蓮を題材とした歌が多い。その一部を挙げる。
歌集には460首が収録される一方、「ウォーターリリー」、「睡蓮」、もしくは(スイレン科の)「オオオニバス」という文字の含まれる歌だけでも39首に上り、歌集の約8.5%が睡蓮についての歌である。一般的に、歌集を編む際には、手札が貧しいとの誤解を与えないためにも、同じ題材の繰り返しは避けるのが定石なので、上記の数字は相当に大きなものであることがわかる。なぜその定石に反するにもかかわらず、本歌集の場合は、題材の繰り返しが前向きに機能しているのだろうか。それは、これらの歌において、睡蓮たちが、陸と水の境目、ひいてはこの世とあの世の境界として機能して、「私」の声に「他者」の声を混ぜる媒介となっているからである。『ウォーターリリー』における「私」は、「1.5人称」とも呼べるかもしれない。
2 「他者」の声
それでは、それらの歌が呼び込む「他者」の声は、誰の声なのであろうか。上記の歌たちの引用元を連作全体で見ると、例えば連作「ウォーターリリー」は、ベトナム戦争を題材にした連作である。その中には、
という歌もあり、歌の主体が「私」なのかベトナム戦争の被害者なのか、特定ができず、連作の人称がゆらぐ。また、同じく例歌の引用元である連作「眩暈(グレア)」は、画家クロード・モネについての連作で、基本的には「私」がモネの絵を観ている形で展開していくのだが、
といった、誰が誰に対して発話しているのかわからない歌もあり、これも人称をかき乱している。この歌もそうだが、三十一文字の中での「ウォーターリリー」という七音の繰り返しには、永遠とも言える時間が流れている。
ここで歌集の構成を見ると、睡蓮やウォーターリリーの歌の含まれる連作は、歌集の冒頭付近と末尾付近に固まっており、その間に、それ以外の連作、すなわち沖縄戦や原発問題、露のウクライナ侵攻を扱う連作が挟まれる形になっている。そのため、冒頭や末尾で生じた人称の揺らぎが、その真ん中の連作の人称にまで影響を与えている。本項冒頭の問いに答えると、呼び込まれる「他者」の声は、沖縄戦、原発問題、戦争の被害者であると言えるだろう。
3 まとめ
『ウォーターリリー』は、ベトナム戦争等の声を拾って人称を重層化する睡蓮関連の連作が、伝統的な一人称の非睡蓮関連の連作にまで影響を与えて、日本の戦争や震災の被害者の声までも響く「1.5人称」構造となっている。この構造は、連作を引用しにくい性質のあるSNS上で優勢と見受けられる、「バズるのがいい歌である」という一首至上主義においては発生し得ない。そうした中、こうした人称を重層化する試みは、短歌の多様性を確保する観点から注目に値する。
「睡蓮」の絵で有名な画家クロード・モネは、睡蓮を使って、その隙間から見える水中、水面、そして水面に映る地上の空間を描くことで、レイヤーの重層化を試みたが、川野も同じく睡蓮を使って、人称の重層化を図っているのは興味深い。睡蓮には、陸と水の境界、この世とあの世の境界として、何か不思議な力が宿っているのかもしれない。
なお、一般論としてこうした実験的な歌集もしくは連作は、試みに第一の重点が置かれるが故に、一首を取り出したときにどうしても屹立性が弱くなりがちである。一方、『ウォーターリリー』の場合は、一首の中での「ウォーターリリー」という語の永遠的な繰り返しによる他者の声と一体化するような韻律、川野の冷静な批評眼や修辞力により、一首だけを取り出されてもある程度の強度は維持できているのも、この歌集が評価されるべき点である。
最後に、上記の論では触れられなかった歌たちを紹介して筆を置きたい。
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